愛する人に何をしますか
中澤 努
会社の同僚Mさんは入社当時からとても無口で威圧感さえ感じさせる人でした。仕事はまじめでよく働きますが一人でいることが多い人でした。たまたま同じ職場に就いたことで話す機会が多くなりましたがなかなかうち解けることが出来ませんでした。長い時間が経ちましたが徐々に話しをするようになり、最近になってようやく自分の事を話してくれるようになってきました。高校時代に恐喝、盗み、喧嘩、シンナー、無免許運転などをしてきました。そして家庭裁判所に出頭し親と共に裁判長の判決を聞く瞬間を迎えました。多くの悪事を行ってきた彼ですが、この時ばかりは足が震え口が渇き緊張したそうです。裁判長が口を開きかけた時、横に座ってじっと状況を見守っていた彼の父親が、さっと出て来て「裁判長様、息子のした事は許されることではありません。しかし息子を少年院に送ることだけは勘弁して下さい。こんな息子にも将来があるはずです。私が責任をもって更生させますから。」と頭を床に擦り付けて何度も何度も懇願したそうです。そんな父親の姿を見て彼は目が覚めたと言っていました。結局彼は少年院に行かずに済みました。その後、二度と父親に辛い思いをさせまいと真面目に働きました。トラックの運転手をしていましたが健康を害し今の仕事に変わりました。家族を養い去年二人の娘さんは看護師の国家試験に合格したと喜んでいました。父親は裁判の10年後に亡くなりましたが立ち直った彼の姿をみてとても喜んだと思います。
さて聖書の中にキリストが十字架に付けられた場面があります。そこに死を目前にしたイエス・キリストのみことばがあります。
「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」 ルカの福音書23章34節
人でさえ自分の愛する者の為にはなんとかしてやりたいと考えます。ましてイエス・キリストは人を罪の滅びから救う為に御自身の命をもって十字架にかかり、しかも父なる神の前に人を赦して頂けるようにとりなしをなさいました。私たちはこのキリストを信じる事によって罪が赦され救われるのです。キリストが人の代わりに十字架にかかる事は御自身の義(正しさ)を表す父なる神の御心に従う事だったのです。このように大きな犠牲を払って私達を贖(あがな)って下さったイエス・キリストを信じ幸いな人生を歩むようお薦め致します。