「アラブの春」の正体
重信メイ
アラブ諸国とは、アラビア半島周辺のユーラシア大陸から、アフリカ大陸かけての一体にある国々である。具体的には、アラブ首長国連邦、アルジェリア、イエメン、イラク、エジプト、オマーン、カタール、クウェート、サウジアラビア、シリア、スーダン、チュニジア、西サハラ、パレスチナ、モーリタニア、モロッコ、ヨルダン、リビア、レバノン、を指します。アラブにアイデンテティーを持つ人たちは、アラブで団結して、自分たちの国を近代化しようとアラブ・ナショナリズムを主張し、欧米の近代化に追いつこうと考えました。しかし、欧米社会におけるキリスト教とは違い、イスラム教は信仰だけでなく、社会規範も含む宗教です。イスラム的な社会規範を温存し、近代化していこうという考え方があります。アラブ諸国には、イスラム教徒がマジョリティーを閉めますが、他に、キリスト教徒やユダヤ教徒などが大勢澄んでいます。共通の基盤として、アラビア語を話すということが共通の基盤としてあります。アラブには国境をまたいだ親戚同士がいくらでもいます。国教よりも部族、親族のきずなが強いのがアラブの伝統です。イギリスやフランスが地図上でまっすぐ定規で引いたように国境界を定めていますが、それは彼らが地図を探してきて勝手に線を引いたからです。欧米の帝国主義、植民地主義によって勝手に国境の線をひかれたアラブ諸国は、国単位で分裂した意識を持つのではなく、「私たちは一体感を持ったアラブ人だ」という共通の意識を持とうというのが、アラブ・ナショナリズムです。ここには排除の論理は働きません。アラブ人が他の民族よりも優位にあるという意識も働きません。アラブ民族はサウジアラビアなど湾岸を出自とする民族なのですが、その前にいた別の民族や、その後にやってきた人たちと徐々に融合して、アラブに住んでいるけれど、先祖はアルメニア人、クルド人という人や、シャルカス、ベルベル人など、未だはっきりアラブとはまた違う歴史を持っている人もいます。今はアラブに住んでいなくても、欧米や南米にもアラブ人はいます。
「アラブの春」の正体-欧米とメディアに踊らされた民主化革命-という本があります。著者は、重信メイ。
重信メイさんは、中東問題、中東メディア専門家です。1973年にレバノン・ベイルートで生まれました。1997、年3月に日本国籍を取得されています。来日後は、アラブ関連のジャーナリストとして活動され、2011年、同志社大学大学院でメディア学専攻博士課程を修了されました。現在、ジャーナリストとしてパレスチナ問題を中心に広く講演活動を行っています。2009年から中東放送センター(MBC)の東京特派員を務められています。
2010年の暮、アラブの片隅にあるチュニジアという小さな国で、野菜を売っていた一人の青年が焼身自殺をしたことから、デモが始まりました。やがてそのデモは大きなうねりとなり、長年続いた政権を倒しました。そして、その動きは国境を超え、近隣の大国、エジプトに飛び火します。民衆の行動は、ついにアラブ世界の大ボスであり、長年にわたってエジプトを牛耳って来たムバラク大統領を政権の座から引きずりおろしました。そして、さらにこの動きはアラブのほかの国へと伝播していきました。世界中のメディアがこの一連の動きを「アラブの春」と呼び、「民主化」への大きな前進だと賞賛しました。
しかし、本当にアラブに「春」は来たのでしょうか?
アラブで生まれ育ち、今は日本で暮らしている私の眼から見た「アラブの春」について書いています。アラブ社会を肌で経験し、アラブについての報道をモニターし続けてきた私から見ると、「アラブの春」の報道は偏っているように見えてなりません。いえ、「アラブの春」に限らず、日本のメディアの報道は、アラブについて、情報が偏っているか、少ないか、わかりづらいか、のいずれかです。そして、世界のメディアが多かれ少なかれ、同じような問題を抱えています。アラブ社会は、外から見てわかりづらい一面があることも確かですが、欧米の思惑がメディアの報道にも影響を及ぼしている部分が大きいのです。日本のメディアも、欧米のメディアの意図をくんで報道されていると感じます。アラブの国々に暮らす普通の人々のことを知ってほしい。声を聞いてほしい。アラブで起こっていることを自分たちとは無関係のことだと思ってほしくないのです。
日本各地で中東で起こっていることをお話しする機会があるのですが、皆さんが口を揃えておっしゃるのは「これまでアラブについて知らないことが多かった楽にならない。」ということです。日本の報道機関が発信する情報だけではわからなかったことが多い、と。確かに日本のメディアは外交問題に弱いと思います。国内のニュース(は十分すぎるほどですが)に対して、世界で起きていることは十分には伝えていないのが現状です。しかし、当然ですが、世界全体の動きと日本の将来は深く関わっています。世界がどう動いているかに無関心でいていいわけがありません。アラブに限って言っても、石油を通じてこの国に暮らす人々の生活に大きく関わっています。いま、アラブで起こっていることがどういうことなのか。報道からだけではわからないことが分かれば、世界全体の動きを理解するきっかけになると思います。宗教が違うから、政治体制が違うから、文化が違うから―と違いが強調されがちなアラブですが、そこで起こっていることはわかりづらくも何ともない。人間の具編的な問題です。
チュニジアやエジプトで人びとが立ち上がったのは、政府の腐敗に対する怒りであり、仕事がない、貧しいということへの不満でした。一生懸命働いているのに生活が楽にならない。働きたいのに仕事がない。そうした状況は、多かれ少なかれ、世界中のどこの国にもある問題です。日本でも、近年、就職難が社会問題化しつつあります。もしかすると、これからもっと失業率が高くなって、若者たちが立ち上がる日が来るかもしれません。
「アラブの春」は、文字通りアラブ各国に、民衆が声を上げる、アクションを起こすという行動を連鎖させました。世界にアラブ革命、民衆蜂起というモデルが広がっていったことも重要だと思います。
2011年9月からアメリカのニューヨークで始まった「オキュパイ・ムーブメント(ウォール街を占拠せよ Occupy Wall Street)」も「アラブの春」の影響があったとされています。彼らの主張は儲けすぎの企業を優遇するのではなく、貧困層の生活レベル向上に政府が力を注ぐべきだということです。アラブの若者たちと彼らが主張することはとてもよく似ています。また、エジプト革命の根拠地であったタハリール広場の群衆のうねりを受けて、アラブ社会とは対立関係にあるイスラエル国内でもストライキや、労働者の待遇改善が要求されています。同じような動きが中国やロシアでも起きるなど、思想や宗教を超えた大きな動きが生まれています。
「アラブの春」が民衆運動に希望の光を与えてくれたことは間違いありません。ごく普通の人々が立ち上がったときに、政治が大きく変わる可能性を世界に発信できました。
<北アフリカの小国、チュニジアから始まった「アラブの春」>
「アラブの春」はチュニジアから始まりました。その動きが「ジャスミン革命」と呼ばれたのは、ジャスミンがチュニジアを代表する花だからです。しかし、当初はこの「革命」を報じたメディアはほとんどありませんでした。私は日本にいてアラブ関連の報道をフォローしているのですが、チュニジアで起こっていることをリアルに伝えてくれたのはフェイスブックでした。チュニジアの友人たちの書き込みから、いまチュニジアでこれまでにないことが起こっていることを知りました。しかし、革命の当初はイギリスのBBC、アメリカのCNNのようなグローバル・メディアはもちろん、アラブ全域をフォローしている衛星放送局「アルジャジーラ」でさえ、チュニジアで起きていることをそれほど報道していませんでした。世界がチュニジアに注目したのは、「革命」も終わりに近づいた、ベン・アリー大統領の国外脱出の時です。チュニジアで起こった政変は、この時「ジャスミン革命」と呼ばれるようになりました。チュニジアのあるグループが政府に対して改善要求を出している程度の報道がテレビで流された報道でしたが、フェイスブックを見ると、あらゆる層の人たちが、チュニジアのこれまでのシステムーに対しての怒りを表しているんだな、ということが伝わってきました。インターネットを通じて、メディアよりも早くリアルタイムで「革命」の進行状況を知ることができる、新しい時代の「革命」が起こったと感じました。
<きっかけは一人の青年の死>
チュニジアは北アフリカにある小さな国です。海の向こうはイタリアとフランスで、ヨーロッパ化tらの観光客も多い。北アフリカのなかでは、経済的には比較的発展している国です。しかし、潤っているのは特定の層で、全国民が公平に経済的な恩恵を受けているわけではありませんでした。むしろ大多数の人達のたちの間には不満が積み重なってきていたのでしょう。「ジャスミン革命」の背景には一般国民の不満があったのです。特定の層というのは、たとえば大統領の家族、親類縁者、友人といった人たちです。彼らにとっては、十分に満足のいく経済状態だったのでしょう。その証拠に、1987年に大統領に就任して以来、実に23年の間、ベン・アリーがこの国のトップの座についていました。しかし、若者たちは強い閉塞感を感じていました。大学を卒業しても就職先がなかったからです。せっかく専門の勉強をしても、それを生かせる職につけなかったのです。チュニジア革命のきっかけを作ったのもそうした青年の一人、ムハンマド・ブーアズィーズィーデでした。ブーアズィーズィーは職には就けず、生活のために露店で野菜を売っていました。父親を亡くしていたため、家族を養うためにお金を稼がなくてはならなかったからです。彼は友人から野菜を売るための荷車を借りて露天商を始めました。路上で商売をするには当局の許可が必要だったのですが、彼はその許可をとらないまま野菜を売っていました。そのため、彼は市の検査官につかまり、撃っていた野菜や荷車などの商売道具をすべて没収されてしまいました。友人から借りていたものまで没収されたことに納得がいかなかった彼は、当局に対して不服を申し立てに生きましたが、その訴えは受け入れられませんでした。彼を逮捕した市の検査官が女性だったことも、彼のプライドを傷つけました。チュニジアはアラブのなかでは女性の社会進出が進んでいる国です。女性でも、男性と同じ仕事につけます。ですから女性検査官は珍しくないのですが、このときの女性検査官は平手で彼の顔を叩いてしまいました。アラブ世界においては、」男性にとって女性に顔を叩かれることは大変な屈辱です。自分の全財産に近いような商品や、友人から借りた荷車を奪われて、明日、食べるお金もない。そのうえ、女性から辱めを受けたー彼の受けた傷の深さは相当なものだったと思います。そこで彼がとった行動は焼身自殺でした。自分の意思を表明するために自分の身体に火をつける。自分が死んでも、意思を広く知らしめたいという行為です。2010年12月17日のことでした。
<ネットで広がった焼身自殺>
彼の焼身自殺は当初、テレビや新聞などのマスメディアでは取り上げられませんでした。しかし、彼が自殺した現場に居合わせた人たちが持っていた携帯電話などのモバイル機器で動画を撮影しました。もちろん、助けようとした人たちもいましたし、運ばれていった病院にいてその場面を撮影した人もいます。そうやって何人かの人が撮影した動画が、インターネットのSNSサイト「フェイスブック」や、動画投稿サイト「ユーチューブ」へアップロードされました。すると、瞬く間にたくさんの人がアクセスし、その動画を目にしました。何故、それほど短期間に多くの人がその動画を見たのか。焼身自殺という衝撃的な出来事が映っていたという理由もあるでしょう。しかし、それ以上に、彼の行動が明日の自分、明日の家族かもしれないというリアリティがあったのではないかと思います。動画を見て、怒りを感じた人たちは自然と町に出て声を上げたり、異議を唱えるようになりました。それがチュニジア革命の最初の一歩でした。イスラムではそもそも自殺は許されていません。彼がどこまでいすらミックな考え方だったかはわかりませんが、自分で自分の身を焼くという行為の深刻さは見る人に伝わってきました。とくに、彼と同じような境遇に置かれているチュニジアの若者たちにとってはなおさらだったことでしょう。アラブ社会で抗議の自殺が図られるという行為は、現在のチベットで僧侶が抗議のために焼身自殺を図るケースから比べると少ないですが、宗教的なタブーより、怒りが勝ったための講義の自殺なのだと思います。ブーアズィーズィーが焼身自殺する様子がインターネットで拡散し、人々が立ち上がるきっかけになっていた頃、実は彼と同じように焼身自殺をする人がチュニジア全土に現れ北アフリカのほかの国にも飛び火しました。焼身自殺が政府に対する抗議の仕方なんだ、と人々が思ったからです。ただ、残念ながらマスメディアはほとんど報道しないか、したとしても、大きな扱いではありませんでした。インターネットを通じて焼身自殺が同時多発的に起こっていることを知った欧米のメディアは、この行為を「コピーキャット(模倣犯)」だと報じました。しかし、私はそうした報道に違和感を感じました。なぜなら、焼身自殺をした人たちはブーアズィーズィーに刺激されて、ただ単に真似をしたわけではなく、自分たちも彼と同じ問題を抱えていて、命を犠牲にするしか政府に声を届かせることはできないと思ったからだと私は感じました。社会全体を動かすには犠牲が必要なのだ、という切実な思いがあると思いました。欧米のメディアから見れば、焼身自殺の連鎖はただの奇妙な現象に見えるかもしれません。しかし、チュニジアの人にとっては、自分たちの命や生活や将来に深くかかわるできごとでした。この温度差が、欧米の報道を歪ませる一因になっていると思います。
チュニジアの国家体制は政教分離(いわゆる世俗主義)であり、女性の検査官がいるように男女平等など進歩的な考えを取り入れています。しかし、同時に、自分たちがアラブ人だというアイデンティティを持っていました。チュニジア人たちが政府に対して申し立てた不満の一つは、チュニジア政府のパレスチナ問題に対しての対応が不十分だということでした。生活レベルでの不満、政府高官や公務員の腐敗、そして、政府の外交に対する不満がチュニジア革命の原動力になったのです。自分たちの政府が自分たちを代表する政治をやっていないということへの不満が大きかったのです。
<ネット情報が革命に火をつけた>
なぜ、チュニジアから「アラブの春」が始まったのでしょうか。長期にわたって国を支配してきたベン・アリー政権に対する不満はずっとくすぶっていたのだろうと思います。今回、その不満の共有を広げた背景には、一つは中東に衛星放送網が広がり「アルジャジーラ」などのニュース・メディアに接するようになったこと。読書や新聞を読むことが不得意なアラブ人が視聴覚情報に飛びついたのです。そしてもう一つ、インターネットの普及にともなって、ツイッターやフェイスブック、ユーチューブなどのソーシャルメディアが浸透していったことが挙げられます。1996年からアルジャジーラのような衛星放送が現れいまでは500もの衛星チャンネルがあります。メディアの発達によって、どんどん人々の世界観が変わってきました。インターネットは相互コミュニケーションを促進するメディアとして、人々の気持ちを徐々に一体化させていく方向に力を発揮しました。
<リベラル派の敗北>
チュニジアで革命を越した勢力の中心は、左派およびリベラルな考え方を持つ若者たちでした。彼らがデモにいったり、大統領府を取り囲んでベン・アリー政権を追い詰めたのです。フェイスブックを見ても、その他のインターネットに載った映像を見ても、デモの写真には必ず赤旗がひるがえっていました。彼らは必ずしも共産主義や社会民主主義の組織に属していたわけではないのですが、心情的に左派を応援する若者たちが、まず行動を起こしました。しかし、革命がおこった後、主役は入れ替わりました。それまで逮捕されることを恐れて、じっと潜んでいたムスリム同胞団の人達などイスラム原理主義の人達が表舞台に出てきたのです。革命後の選挙では、ムスリム同胞団が左派に勝利しました。革命を起こした若者たちから、イスラムによる社会を実現しようとする大人たちへの変化は、デモに参加していた若者たちにとっては予想外のことであり、苦い結末だったのではないかと思います。イスラム原理主義者たちが政権をとったことが悪いとは言いません。しかし、革命のために行動を起こした若者たちが求めていたことが「より自由な社会」だったとしたら、これからのチュニジアは、彼らの望む通りにならない可能性が高いと思います。
<ムスリム同胞団はなぜ勝利したか>
チュニジア革命では、300名を超える死者が出ました。その犠牲の上で、ベン・アリー政権が倒され、2011年6月、ベン・アリーと夫人に対して欠席裁判が行われ、懲役35年の判決が下されました。政権が倒れた後に行われた選挙では、旧ベン・アリー政権を支えていた党の主要メンバーは選挙権が剥奪されました。選挙後、政治警察と国家治安機関が廃止されたのは民主化への前進でした。初の議会選挙で勝利したのはムスリム同胞団が母体になった「アンナハダ」でした。217議席中89議席を獲得し、第一党となりました。続いて中道左派の共和国評議会が二十九議席、社会民主主義政党の「アットカル」が二十議席をそれぞれ獲得し、その三党が連立政権を樹立しました。民主化を求めて起きた革命が成功し、いざ公正な選挙を行うと、保守的なイスラム主義の政党が勝ってしまう。」これと同様の現象が、エジプトや、パレスチナでも起きています。
<国民が立ち上がる条件>
革命後の選挙がイスラム系の政党に有利だったのは、革命の原動力になったリベラル、左派のグループから有力なリーダーが出てこなかったからという理由もあります。ではなぜ、有力なリーダーなしに革命が成就したのでしょうか。人びとの間に不満がある時には、行動を起こすためにリーダーは必要ではありません。政府を倒すまでは民主蜂起でできるのです。リーダーが必要になるのは、政権を倒し、新しい政権を作るときです。政権を倒すまでは、不満や要求という共通の思いが人々の心を一つにします。しかし、政権を倒した後、不満を解消し、要求を実現していくというプロセスでは議論が分かれます。そのときに、大まかな方向性を示し、人々をまとめていくリーダーシップが必要になるわけです。
(以上)