もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか 。(聖書:マタイの福音書18章12節)
1977年新潟市内から一人の少女が忽然と姿を消しました。 両親は必死にこの行方不明になった子供の消息を求めて毎日歩き回ります。 そして1997年この少女が北朝鮮にいることがわかってくるのです。
少女は横田めぐみさん。 20年間、両親は少しの手がかりでもわずかの可能性でもそれを頼りに懸命な聞き込みを行いました。 物をなくしてもそれが金で買える物なら諦めもつきます。
しかし、お金では買えないもの特に自分の子供であったらどうでしょう。 途中で諦められるでしょうか。
子は親にとってかけがいのない存在であり、自分の全財産どころか生命をかけてでも取り戻したいと願うほど大切なものです。 冒頭の聖書の箇所は、そのような親(その人)と子(羊)の関係をイエス様が説明されていることばです。 羊とは人間を、その人とは神を表す比喩です。
迷った羊は牧草を食べるのに夢中で仲間の羊の群れが移動していくうちにはぐれてしまったのでしょうか。 いずれにしても、迷い出るとは、神から離れていった人間を指しています。
たとえ99匹を狼のいる危険な山に放っておいてでもこの一匹を探し出そうとするとは、「親である神」は「子である人間」が自分の群れからいなくなったことをどれほど悲しみ、そしてその失われた一人の人間を見つけ出そうとどれだけ望まれているかという神の姿を表しています。
そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。 このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
(マタイの福音書18章13,14節)
羊飼いにとって失われた羊は、百匹の中の一匹ではない、かけがえのない一匹であり、行方しらずのままで放っては置けない、貴重な価値をもつ存在なのです。
見つからなければ、やがて狼の餌食になってしまうこと (すなわち滅んでしまう)を知っており、羊飼いはこの羊が生きて自分のもとに戻ったことを手放しで喜ぶのです。
失われた羊を取り戻すためには、大きな代価が必要でした。 それは神のひとり子イエス様ご自身が、その命を神に差し出すということでした。 イエス様は神のご計画に従順に従われ、十字架上で死なれたのです。神と人の関係において、人が神にかえること、神の言葉への不信仰が、信仰に変わってゆくこと、人格的に新しく神の言葉に生まれ変わることを、悔い改める、といいます。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」(マルコによる福音書1:15)
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鈴木秀幸