ルターとエラスムス
今日は宗教改革を主導して、18世紀の世界に新しいグループ(プロテスタント)をもたらしたマルチン・ルターのお話です。ルターについては、信仰義認論を打ち出した人物としてプロテスタントの教会ではその評価は揺るぎありませんが、キリスト教を二つのグループに分断した張本人ともいわれ、新教(プロテスタント)と旧教(カトリック)の対立は三十年戦争(
1618-1648 )をもたらしました。もしルターが宗教改革を断行せず、カトリックを分断しなければ、この戦争は起こらなかったでしょう。
ドイツのヴォルムスの国会で、ルターの審問が行われた時の様子は下記のとおりです。
「国会の審問官はルターにこう話しかけた。〈 マルティン・ルター、皇帝と帝国があなたをここに呼んだのは、第一に、そこにある書物と、あなたの名前になっているほかの書物とはあなたの書いたものかどうかを述べて、はっきりさせるためであり、第二に、あなたはこれらの書物を擁護し、あくまで固執しようとするのかどうかを知らせてほしいためである。〉こうしてこれらの書物の表題が次々に読み上げられた。
ルターはそれに答えた。第一問については、これらの書物はすべて自分が書いたものであることを告白する—しかしそれは嘘であった。それらの書物中には、マルティン・ルターの名前で流布しているが、別人の手になるものがあることはよく知られているのだから―そして自分は、それらの書物が自分の著作であることをいつでも認めるであろうといった。第二問に対しては、それは恩寵に関する問題として、およそ一番むつかしい事柄の一つであるから、熟考する時間をかしていただきたいと答えた。そのあと、皇帝は顧問官たちと退席され、選帝侯たち、他の諸侯、諸都市の大使連も退場して行った。上記の審問官は事柄をとくと考えた後、皇帝と帝国の名において再び発言した、あなたは前もって帝国によって招かれ、その招かれた理由もわかっていたはずだから、ここへやってくる際に答えを用意しておかれなかったということはおかしい。世間の人々も当然驚くにちがいない。また人々は信仰問題に置いて、原理的に猶予を認めることを欲しはすまい、なぜなら、猶予の時を与えれば、信心深い人々の危険と怒りをかうことは必定だから―神が欲し遊ばすなら、彼らはすでに五か月前に、義務にふさわしい行動をとっていたはずである。それとは関係なしに、純粋に皇帝の恩情と恩寵とによって、明日の午後四時まで猶予が与えられる。それから、皇帝は審問官を通じてルターにこう言わせられた、ルターが教皇とペテロの高座に背いて書き、多くの異端の説をまき散らしたこと―これはまさにぴったりした言い方であり、実に結構なことであった―を充分考えるべきである。しかしそのことから、このようないまわしい事件が生じたので、もしできる限り速やかに防止しないと、それが大火事になりかねない。そうなったあかつきには、ルターを再度喚問してみても、また皇帝の力をもってしても、もはやその火を消すことはできまい。それゆえ、ルターがその考えを変えるよう警告する。そうすれば、これ以上話し合いをせずとも、ルターは釈放されるであろうと」
次の日は午後遅くなってから、ルターは二度目に、国会の審問の席にあらわれた。この日の様子をも、アレアンデルは細大もらさず、ただちにローマに書き送った。「では、皇帝の審問官はたずねる、〈皇帝陛下の依頼にもとづき、最後的返答を求めるが、あなたが認めたあなたの著書を、あなたはいつでも擁護するつもりであるのか、それともとり消すつもりがあるのか? 〉―これはラテン語とドイツ語の両方で言われた―これに対し、マルティン・ルター博士もラテン語とドイツ語とで、しかもうやうやしく、つつましい態度で答えた。決して声を荒げるようなことをせず、礼儀正しく、しとやかに、謙恭に、だがキリスト教的な勇敢さと確固たる口調でもって話した。敵たちにしてみれば、ルターが考える時間を求めた後、必ずその著書を撤回し、取り消すだろうと誤って予想していたので、彼はもっと気おくれした、びくびくした話し方をするだろうことを願い望んでいたのだ。ところが案に相違して、ルターの答えは次のようなものであった。
……皇帝陛下、選帝侯閣下各位ならびに貴顕の方々、昨日陛下によって私に立てられました二つの条項、すなわち、ここで読みあげられ、わたしの名前で出されている書物をわたくしの著書と認め、それらを擁護することに依然固執するつもりであるか、それとも取り消すつもりがあるのかという質問のうち、第一項に関しては、わたしはうやうやしく、はっきりと正しい返答をいたしました。これは今でもなお変わりませんし、今後とも永久に変わることはありますまい。つまり、それらの書物は私の書いたものであり、わたしの名前で出たものであります……しかし第二項についての答でありますが、皇帝陛下、選帝侯、諸侯閣下各位につつしんでお願い申し上げます。私の著書は全部が全部、一様ではないことを充分お考えいただきたいのであります。と申しますのは、その中で私がキリスト教信仰と善行とに関しきわめて簡明率直にかつキリスト教的に説いたものが、若干ございます…………ところで、そういう書物を取り消し始めるといたしますと、皆さん、それこそわたしは、すべての人間のうちでわたしただ一人が、味方と敵の双方から同時に認められている真理をとがめ、すべての人々の一致した信条にひとりだけ抗うことにほかならなくなりはしないでしょうか?
………他の種類のわたしの著書には、教皇権と教皇たちの教えが偽りの説、邪悪な生、腹立たしい例によってキリスト教界を完全に荒廃させたものとして、攻撃され、毀損されたものがあります。
………そこで、もしわたしがこれらの著書をとり消すようなことをいたしましたら、それこそ私は彼らの非道を強め、かかる大きな不信心と神に背く本質とに、窓ばかりか戸口や門までも明けてやり、その結果、彼らはこれまでやってくることができたよりもずっと大っぴらに、広く暴威をほしいままにするのを許すことにほかならなくなりましょう………
……いま一つ別の種類のわたしの著書は、若干の私人、つまりローマの非道を弁護し、擁護して、例えば私の説く敬虔な教えをゆがめ、あいまいなものにすることをやってのけた人たちに反対して書かれたものであります。こういう連中に対し、率直に告白いたしますが、わたしは宗教および修道の身にふさわしいよりは、いくらか激烈な調子をとりました。それと申しますのも、わたしは自分を聖者にする気はもうとうありませんし、それにまた自分の生についてではなく、キリストの生について争論しているのだからでございます。しかしこういった書物をとり消すことは、なんとしてもわたしにふさわしいことではございますまい……
………それゆえわたしは神のご慈悲によって、皇帝陛下、選帝侯および諸侯各位、あるいは身分の高下を問わずそれをなしうるお方、どうか予言者と使徒の書をもって、わたしが誤っていたことがわたしに納得できる論証を与えてほしいと願う者であります。そうすれば、わたしも納得して、喜んで、そして進んですべて誤謬をとり消し、真先に自分の書いた書物を火中に投じようとするでありましょう。
………わたしがこのように申しあげますのは、かかる貴顕の方々にお教えしようとか、わたしの思い出を刻み込もうとかと考えるからではありません。そうではなくて、ドイツ国民、わが愛する祖国に対しわたしのなすべき奉仕を避けたくなかったからであります。
ルターがこのように話したとき、皇帝の弁士は憤りと昂奮をかくせぬもののように、彼の答はまとをはずれている、前もって公会議で定義され、議決され、断罪されたようなことは、疑われてはならぬし、またそれについて論議すべきでもない、それゆえ、ルターに求められるのは、彼が所説を撤回し、とり消すつもりがあるのかないのかに対し、簡明、率直に正しく答えねばならぬということだと言った。
これに対し、ルター博士は言った。
………そもそも皇帝陛下、選帝侯ならびに諸侯閣下各位におかれては、率直、簡明な正しい答を望んでおいでになるのですから、わたしは円満なお答をいたしましょう。つまり、わたしが聖書の証言または公の明白な理由と原因とをあげて論破され、説得されるのでなければ―と申しますのは、教皇も公会議もしばしば誤謬をおかし、自己自身に嫌悪してきたことは、だれ知らぬことのない、明白な事実でありますから、わたしは教皇も公会議もそれではだけ信用してはおりませんので―したがって、わたしによって引用、紹介されている文句を確信し、わたしの良心が神の言葉に捉えられている限りは、わたしはなに一つとり消すことはできませんし、またとり消すつもりもございません。良心に反した行為をなすことは、安全なことでも、感心したことでもありませんから。わたしはここに立ち、決して逃げかくれはいたしません。神よ、わたしを助けたまわんことを!アーメン。
ルターのこうした断固たる申し開きは、当然大混乱を巻き起こした。その混乱のなかを、ルターは押し出されるようにして外に消えた。皇帝は馬丁の一人-この男はスペイン人であったが―の如きは、〈火あぶりにしろ!〉と叫んだが、幸いそれがスペイン語だったため、流血の惨を招くきっかけにならずに済んだといわれる。」
人文主義者(じんぶんしゅぎしゃ)とは、ルネサンス期において、ギリシア・ローマの古典文芸や聖書原典の研究を元に、神や人間の本質を考察した知識人のことです。特に、15世紀-16世紀に活動したフランス人の影響が大きいため、日本ではフランス語のまま「ユマニスト」と表現されたりもする。人文主義の中でルターの宗教改革に大きな影響を与えたのがエラスムスの聖書研究であった。エラスムスの思想がルターの聖書中心主義を生み出したという理解は当時の民衆に共通であったので、「エラスムスが卵を産み、ルターが孵した」とさえ言われた。エラスムスはローマ教会とカトリック教会の古い体質を批判していたが、ルターの急進的な改革には否定的であった。彼自身はルターに影響を与えたとは考えておらず、ローマ教皇の権威そのものを否定したわけではなかった。彼の立場は、同時期にイギリスでローマ教会から分離しようとしていた国王ヘンリ8世を批判したトマス=モアに近いものであった。エラスムスは、ルターやフッテンなどから、実践的行動を欠く男と呼ばれていた。エラスムスには闘争を嫌い、精神の平安を大切にする性格が付きまとっていた。現代の知識人にも固有な、凡そ人間の実践的行動に不可避な愚昧さを嫌悪する知的矜持がもたらしたものと考えられる。エラスムスのこういう弱さ―これはまた強さでもあるが―にこそ、われわれは人間的共感を覚えるのである。心の不安を学問の力によって克服しようと苦闘し続けた、深いしわに刻まれた顔の男であったと推察される。時代の激動の中で格闘する精神的人物たちの生を規定したような意味合いでの危機( ルターがそうであった )というものは彼にはなかったといえる。ルターのみならず、フッテンに対しても理解が欠けていたのは、一つには幼児期に体験した、体験の違いが原因かもしれない。彼(エラスムス)の説くところは古典古代の精神の不変性ということであった。エラスムスは終始、普遍的言語としてのラテン語を捨てず、ルターらがドイツ語使用を推し進めたのとは深い溝を感じる。エラスムスは1516年に「キリスト教君主提要」を書き、世俗君主に対する自己の態度を明らかにした。それによると、君主の任務は正義を保持し、文化財を守ることにあり、たとえ戦争によってであろうと、結婚によってであろうと、同盟関係によってであろうと、権力拡大につながる政策は一切取ってはならないと警告している。およそマキャヴェリの現実主義とはかけ離れた君主論ではあるが、人文主義者エラスムスの面目躍如たるものがある。続いてエラスムスは『平和の訴え』( 「永久平和論」である )を書いた。その骨子は、自然の全ての動植物には、平和と調和の理念が生きている。それなのに、万物の霊長たる人間だけが互いに争闘しあっている。ユーリウス二世が出陣した時、彼は神の言葉を乱用し、十字架のしるしのもとに戦いに赴いた。キリスト教徒同士の争いをなくすることこそ、教会の大きな任務である。どんなことがあっても、戦争は避けられねばならない。人間の道徳生活全般をキリスト教の力の下に置こうとする彼の改革者的、教育者的一面がうかがえる。1519年3月28日付でルターから始めて手紙をもらったのに答えた同月39日付の返書で、エラスムスはこんなふうに言っている。「私はできる限り中立的態度をとっています。そうする方が、学問が再び隆盛になるのにより多く役立つと思うからです。「シュトルム・ウント・ドラング」をもってするよりは、つつましい礼譲をもってする方がより前進できると考えています。キリストが世界を自分に服させたのは、こうしたやり方によってであったし、またパウロはすべてを比喩的に解釈することによってユダヤの律法を除いたのです。改革問題に関するエラスムスの真意は、ルター派からも、ローマ側からも理解されなかった。双方からますます強い嫌疑をかけられるようになったので、さしもの彼も、ついに自分の立場を明確にする決心をしなければならぬ時が来た。エラスムスが、1526年4月11日に、ルターに絶縁状らしきものを書いている。「君が闇の力からもぎ取ったのが何人なのか知らないが、これら忘恩の徒に向けてこそ、君は一人のつつましい論争相手に向けてよりむしろ君のペンの剣を抜くべきであった。もし君の精神にそれほど満足していないのなら、わたしは君にもっと良い別の精神を望むだろう。君は君の欲するものを、わたしから望むことができる。ただ君の精神を望むことはできない。神がその間に、君に別の精神を与えたのでなければ」ここには、普遍的人文主義者の知的優越の意識がルターの偏狭な精神にとどめを刺している。エラスムスはこの絶縁状を書いて、気分爽快であったに違いない。以後彼がしばしば自己の立場を明確に表明できるようになり、他人とのあいだにあるの限界線を引くに至ったのも、当然であったと思える。とはいえ、この知的勝者はやはり孤独であった。エラスムスは失望と寂寥のうちに日々を送らねばならなかった。エラスムスは人間的生と人知の普遍性を信じていたゆえに、当時澎湃(ほうはい)と起こりつつあったナショナルな動向、ドイツの人文主義者たちをも捉えていた国民感情に同調することを拒み、言語においてもラテン語を捨てることをしなかった。そこから後世が彼の偉大さの教訓をくみ取るゆえんであろうが、それはまた彼の歴史的限界でもあったろう。ドイツ人文主義はエラスムスを別にして、極めてナショナルな性格を帯びたものであり、その点でドイツ国民宗教的意識から成立したルターの宗教改革と共通していたことを知った。ルターが人文主義者であったかなかったかとは関係なしに、この共通性は認められなくてはならないだろう。
ルターとドイツ精神史 菊森英夫著 岩波新書
盛 英夫(きくもり ひでお、1909年2月14日 - 2001年12月12日)は、日本の文学研究者、ドイツ文学者、映画・文芸評論家。中央大学教授を歴任。富山県富山市生まれ。1933年東京帝国大学独文科卒業。1980年まで中央大学教授。多くの著書、翻訳があり、トーマス・マンを専門とした。