不良牧師!「アーサー・ホーランド」という生き方
という本があります。著者はアーサー・ホーランド。2002年に第一刷りが出され、2003年に第2刷りが出されました。著者を短く紹介すると、1951年大阪市西成区生まれ、本名は岡田正之です。日本でハイスクールを終えた後、父の国アメリカへ渡り、アメリカで全米レスリング選手権チャンピオンを2回、パンアメリカン大会銀メダル、全米柔道選手権大会で3位になります。23歳で洗礼を受け、クリスチャンになります。そののち、首の骨を損傷して現役を引退し、伝道活動に入ります。最初はアメリカで活動し、1982年からは伝道の拠点を日本に移し、路上伝道、日本列島縦断十字架行進など、一般の教会ではあまりやらない発想で行動するところが面白い所である。この他にも、「ミッション・バラバ」の創設、バイク・ミッションでの活動、更に薬物依存症などの少年少女に福音を伝える活動などもユニークである。
「昼でもアーサー、夜でもアーサー、皆さんこんにちは、アーサー・ホーランドです」とは、彼が開口一番、口にする言葉であるが、キリスト教を頭でわかってもらうのではなく、神さまの愛、すなわちキリストの愛を人々に伝え「お前たちは愛されている」と語る人である。彼は「神というのはすごい。見えないものを無理やり説得しようとするのではなく、まず見えるものを通して見えない世界を感じさせてくれる人だ」と断言する。頭で知るのではなく、心から知ること、心から納得することが大事なのです。
よく右脳で聞く、左脳で聞くと言いますが、左の脳は、言語脳、右の脳は音楽脳、芸術脳ともいわれていて、それぞれ左で理性的認知、右で感性的認知の役割があるとされています。左脳で聞いて理解しても、右脳に伝わらないから、行動に移らないのです。行動と言えばアーサー・ホーランドです。
第四章に「あなたは愛されている」-これがゴスペルのスピリットだ。―いう一節がある。「たたたまバイブルのスピリットが俺を動かして、路傍伝道を新宿駅東口のあるアルタの前でやらせた。神の大きな愛、深い、高い、広い網を降して、『お前たちは愛されているよ。俺も愛されているし、お前も愛されている。俺らはどうしようもない人間だ。でも愛されているんだ』ということを伝える漁師になれと言っている。まさに、ジーザスが漁師たちにバイブルの中でいった箇所がハートに響いてきたのである。
右の頬を殴られたら;酔っ払いにも絡まれた。一度、酔っ払いが「この野郎」と言って、俺の首根っこをつかんできたことがある。関節技でポーンと投げ飛ばしてやった。「おじさん、そういうことやったら、神さま悲しむよ」。ひっくり返ったおじさんはもう近寄ってこなかった。「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」というのはとても俺にはできない。右の頬を殴られたら急所を蹴っ飛ばして、「おまえ、クリスチャンって、そんなに甘いもんじゃねえぞ」と言ってやる。「お前が今まで殴ってきた奴は弱い奴かもしれないが、俺は違うぞ」というのを見せつけてやるのだ。そういう部分を見せながら神の愛を伝える。だから、新宿歌舞伎町の路傍伝道ではよく投げ飛ばしたり関節技を入れたりした。バイブルにある「右の頬を打つものには、左の頬もむけなさい」という部分はよく一般にも語られるけれど、自分の身を護ることとは次元が違うのである。殺されようとしているのに、そのまま、「父よ、彼らを赦してあげて下さい。」と、ただ殺されるのを待つのかと言ったら、それはそうではない。「生きる」ということを考えると「守る」という方にギアが入るのだ。・・・・俺たちの最大の武器は神だ。「神をなめんじゃねえよ。どんなに相手が多くて強くても、冗談じゃねえ。俺の神はもっとすごいんだ。おめえら傲慢になるな」というわけだ。そのためには、俺流のやり方で体を張って蹴り飛ばすしかないのだ。
ジーザスはみんなを愛してくれる;
俺の道端でのメッセージは、「あなたは愛されています」というものだ。これは聞く人に絶対、ネガティブな思いを起こさせない言葉だ。また俺はいろいろなところに「You
are loved.( ユウ アー ラブド=あなたはあいされている ) と書く。そうしたら広告代理店関係の人間が、「この文句、どっからパクったんですか」と俺に聞くから、「いや、パクってなんかいないよ、俺のオリジナル、インスピレーションだよ」「そうですか。これって最高ですよ」と言うのだ。--
「あなたは愛されている」の逆は、「お前は愛されていない」ということだ。これほど悲しい言葉はない。今、この「愛されていない」人間のなんと多いことか。だが、「You
are loved.」はその正反対。ジーザスは俺を愛してくれている。俺だけではなく、みんなを愛してくれている。何かをしたから愛されるのではなく、何もしなくても愛されている。これがゴスペルのスピリットなんだ。
それを俺は道端で語る。俺の語り方は、人の前でその人の目を見ながらやる。人の流れに合わせて、「あなたは愛されている」と語り伝えるのである。
第7章 大自然の懐に抱かれて –ハーレーに載って東奔西走の日々
「ミッション・バラバ」をやっているとき、俺はバイクに興味を持つようになった。俺はいつも自分の好きなことをやってきた。一つのものにアイデンティティを持つだけでなく、自分の中に遊び心やゆとり、間というもの、言いかえれば「車間距離」をもって生きてきた。そうしないと、どうにも息苦しくなってしまう。それで、「ミッション・バラバ」をやりながら、遊び心でバイクに手を出した。そのきっかけは、やはり松沢だ。松沢は、昔からバイクに乗っていた。しかも、古いバイクが好きで、古いバイクの音が堪えられないと言って、次から次へとバイクを替える。まるで病気である。
そのころ、俺はバイクというのは危ない乗り物だという先入観があった。俺は四十代になるまで、決してバイクに乗らなかったし、まったく興味もなかった。
ある日、集会が終わったあと、松沢が、「アーサー、この近くに『ホワイトハウス』っていうバイクショップがあるから、見に行こうぜ。」と言って俺を誘った。かつてホンダで働いていた鵜飼清志さんという人が和光市で経営しているバイクショップである。彼は非常に職人肌の男で、既成の大量生産によるバイクづくりに飽き足らず、独自のバイクショップを立ち上げたのである。ホンダやヤマハの市販のバイクを改良して、面白いデザインをほどこし、夢を与えて人びとに乗ってもらおうというのだ。今でも鮮明に覚えているが、松沢と二人で、ショーウィンドーのガラスにべったりくっついて、中に並べてあるバイクを見ていた。一目惚れしてしまった。一代の白いバイクの後ろ姿に……。「かっこういい、乗りたい」と思った。今まで乗りたいという気持ちなどみじんも起きなかったのに、である。最初かったバイクは、タンクにジーザスをつけて4千キロ乗り、気まぐれでそれに飽きると、新しいバイクに乗り換えて8千キロ走った。また飽きた。まるで松沢と同じだ。もう本物しかない。つまり、ハーレーダビッドソンしかないのだ。ハーレーに乗るには大型免許が必要だ。大型免許に挑戦した。免許は9日間でとれたし、検定も一発合格である。そこで、今度は、バイクを使った伝道を始めた。日本で唯一のクリスチャンバイカーズクラブ「ザ・ロード・エンジェルス」の誕生だ。1997年3月14日、バイクショップ「ホワイトハウス」に11人が集まって発足式を開いた。バイク・ミッションのスタートである。早速8月に、長野県の野辺山で二泊三日のキャンプを張った。
ここで聖書の話をしたいと思います。「旧約聖書」にある「エステル記」です。
エステル記は、エステルというユダヤ人の女性がバビロン捕囚に続く時代にへブル民族絶滅の危機が起こり、この女性がそれを救うというお話です。
現代は、地球が滅びようとしています。滅びの原因は、人間の欲望です。地球は紛れもなく史上最大の危機を迎えています。この危機を乗り切るために、今までのやり方ではだめです。エステルがへブル民族の絶滅を救った行動を学ぶ必要があります。「行動」です。「行動」です。「こうどう」です。
一節がエステル記 4章
1 モルデカイは、なされたすべてのことを知った。すると、モルデカイは着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、大声でひどくわめき叫びながら町の真ん中に出て行き、
王の門の前まで来た。だれも荒布をまとったままでは、王の門に入ることができなかったからである。王の命令とその法令が届いたどの州においても、ユダヤ人のうちに大きな悲しみと、断食と、泣き声と、嘆きとが起こり、多くの者は荒布を着て灰の上にすわった。そのとき、エステルの侍女たちと、その宦官たちが入って来て、彼女にこのことを告げたので、王妃はひどく悲しみ、モルデカイに着物を送って、それを着させ、荒布をぬがせようとしたが、彼はそれを受け取らなかった。そこでエステルは、王の宦官のひとりで、王が彼女に仕えさせるために任命していたハタクを呼び寄せ、モルデカイのところへ行って、これはどういうわけか、また何のためかと聞いて来るように命じた。それで、ハタクは王の門の前の町の広場にいるモルデカイのところに出て行った。
モルデカイは自分の身に起こったことを全部、彼に告げ、ハマンがユダヤ人を滅ぼすために、王の金庫に納めると約束した正確な金額をも告げた。モルデカイはまた、ユダヤ人を滅ぼすためにシュシャンで発布された法令の文書の写しをハタクに渡し、それをエステルに見せて、事情を知らせてくれと言い、また、彼女が王のところに行って、自分の民族のために王にあわれみを求めるように彼女にいいつけてくれと頼んだ。ハタクは帰って来て、モルデカイの伝言をエステルに伝えた。するとエステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えさせた。
「王の家臣も、王の諸州の民族もみな、男でも女でも、だれでも、召されないで内庭に入り、王のところに行く者は死刑に処せられるという一つの法令があることを知っております。しかし、王がその者に金の笏を差し伸ばせば、その者は生きます。でも、私はこの三十日間、まっだ、王のところへ行くようにと召されていません。」彼がエステルのことばをモルデカイに伝えると、モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」
エステルはモルデカイに返事を送って言った。「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」
5章2節
王が、庭に立っている王妃エステルを見たとき、彼女は王の好意を受けたので、王は手に持っていた金の勺をエステルに差し伸ばした。そこでエステルは近寄って、その勺の先に触った。
エステルが王のもとに進み出たというただそれだけのことが、イスラエルの運命の転換点となりました。少なくとも私たちが理解しているような奇跡が、イスラエルを救ったのではない。隠れたところで働く父として、神がその救いのわざを、従順に自分の命を危険にさらしたエステルの行動に結びつけたのです。そのような行為を神は祝福されました。それは、行為者である神が、隠れたところで待ち望んでいた行為であります。
この物語は、私たちに一つ重要なことを教えてくれます。救い主の希望によって生きることは、只受け身で待つこととは異なるということです。私たちが避け所を後にし、私たちの未来と繁栄を、またもし必要なら生活全体を、真理と正義のために危険にさらすことが要求されているのです。
これらのことを実行しなければならないのは、なんらかの方法で私たち自身が、今日の悪魔的な悪循環と神々としてあがめられている力の化けの皮をはがすことができるからではありません。むしろ、強力なイデオロギーの中で、正義を曲げず、愛を歪めない私たちの行為が、生ける神にとって、神の救いの技と私たちの行為とを結合させるしるしとなり得ると律法が語っているからである。私たちの行為は、エステルの行為が何世紀も前にそうであったように、運命の時に神の国の力の動員を求める声となり得るのです。
隠された神がまさしくそれを望んでいるかどうかを誰が知ろうか。いかにして最初の危険な一歩を踏み出すか、霊的闘いの正確な結末はどうか、ということに関して正確に知る必要はない。「もしかすると」と、モルデカイも言った。私たちと同じようにモルデカイも名案が思いつかなかった。しかし、私たちはその最初の一歩を踏み出さなければならないのです。
キリスト者の希望は、現代社会の状況から私たちを切り離すというよりは、むしろ結び合わせます。偶像と偽りのイデオロギーを打ち捨てよと、私たち全員に呼びかけられているが、最初の一歩の性質と困難さは、状況に応じて変わってきます。
私たちのただ中にある硬直した国家主義のイデオロギーの場合は、安全や繁栄のイデオロギーを捨て去ることとは違う第一歩が必要とされます。しかし、踏み出し方にはいろいろあるが、呼びかけはすべて同じである。私たちは、信頼を置いているそれらの手段とおおやけに手を切り、私たちにとって人生の意味を定義するそれらの目標と距離を置かなければならないのです。これらの目標と手段は、従順の実践と、純真でイデオロギー的要素のない愛に対して障害となります。
私たちを抑圧する人間に対して具体的な正義の行為をなすことを拒み、圧力や恐喝が私たちに対して行われるあらゆるところで、真理とあわれみを実践することを拒むのです。右の呼びかけに従うことで、第一に自分の名声、第二に所属する政党、教会、第三に地域社会とのつながり、第四に自分のいのちが犠牲となるだろう。
しかし、
敢えて最初の第一歩を踏み出すことが、内に生きている希望にこたえる者たちの、唯一の選択なのです。
聖書にエステル記という書物があります。これは紀元前478年頃の「エステルがペルシャ王妃となった」時代、エステルが大虐殺の危機からユダヤ人を救った物語です。バビロン捕囚となったユダヤ人がバビロンからエルサレムに帰った時期は前536年ですから、エステルらはバビロニアに残留したユダヤ人です。
エステル記1章には、王妃ワシュティが退けられ、2章にエステルが王妃となる話が記されています。3章に、「すべてのユダヤ人を根絶やしにせよ」というハマンの命令が記されています。
4章に移ります。
1 モルデカイは、なされたすべてのことを知った。すると、モルデカイは着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、大声でひどくわめき叫びながら町の真ん中に出て行き、
王の門の前まで来た。だれも荒布をまとったままでは、王の門に入ることができなかったからである。王の命令とその法令が届いたどの州においても、ユダヤ人のうちに大きな悲しみと、断食と、泣き声と、嘆きとが起こり、多くの者は荒布を着て灰の上にすわった。そのとき、エステルの侍女たちと、その宦官たちが入って来て、彼女にこのことを告げたので、王妃はひどく悲しみ、モルデカイに着物を送って、それを着させ、荒布をぬがせようとしたが、彼はそれを受け取らなかった。そこでエステルは、王の宦官のひとりで、王が彼女に仕えさせるために任命していたハタクを呼び寄せ、モルデカイのところへ行って、これはどういうわけか、また何のためかと聞いて来るように命じた。それで、ハタクは王の門の前の町の広場にいるモルデカイのところに出て行った。
モルデカイは自分の身に起こったことを全部、彼に告げ、ハマンがユダヤ人を滅ぼすために、王の金庫に納めると約束した正確な金額をも告げた。モルデカイはまた、ユダヤ人を滅ぼすためにシュシャンで発布された法令の文書の写しをハタクに渡し、それをエステルに見せて、事情を知らせてくれと言い、また、彼女が王のところに行って、自分の民族のために王にあわれみを求めるように彼女にいいつけてくれと頼んだ。ハタクは帰って来て、モルデカイの伝言をエステルに伝えた。するとエステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えさせた。
「王の家臣も、王の諸州の民族もみな、男でも女でも、だれでも、召されないで内庭に入り、王のところに行く者は死刑に処せられるという一つの法令があることを知っております。しかし、王がその者に金の笏を差し伸ばせば、その者は生きます。でも、私はこの三十日間、まっだ、王のところへ行くようにと召されていません。」彼がエステルのことばをモルデカイに伝えると、モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」
エステルはモルデカイに返事を送って言った。「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」
5章2節
王が、庭に立っている王妃エステルを見たとき、彼女は王の好意を受けたので、王は手に持っていた金の勺をエステルに差し伸ばした。そこでエステルは近寄って、その勺の先に触った。
エステルが王のもとに進み出たというただそれだけのことが、イスラエルの運命の転換点となりました。少なくとも私たちが理解しているような奇跡が、イスラエルを救ったのではない。隠れたところで働く父として、神がその救いのわざを、従順に自分の命を危険にさらしたエステルの行動に結びつけたのです。そのような行為を神は祝福されました。それは、行為者である神が、隠れたところで待ち望んでいた行為であります。
この物語は、私たちに一つ重要なことを教えてくれます。救い主の希望によって生きることは、只受け身で待つこととは異なるということです。私たちが避け所を後にし、私たちの未来と繁栄を、またもし必要なら生活全体を、真理と正義のために危険にさらすことが要求されているのです。
これらのことを実行しなければならないのは、なんらかの方法で私たち自身が、今日の悪魔的な悪循環と神々としてあがめられている力の化けの皮をはがすことができるからではない。むしろ、強力なイデオロギーの中で、正義を曲げず、愛を歪めない私たちの行為が、生ける神にとって、神の救いの技と私たちの行為とを結合させるしるしとなり得ると律法が語っているからである。私たちの行為は、エステルの行為が何世紀も前にそうであったように、運命の時に神の国の力の動員を求める声となり得るのである。隠された神がまさしくそれを望んでいるかどうかを誰が知ろうか。いかにして最初の危険な一歩を踏み出すか、霊的闘いの正確な結末はどうか、ということに関して正確に知る必要はない。「もしかすると」と、モルデカイも言った。私たちと同じようにモルデカイも名案が思いつかなかった。しかし、私たちはその最初の一歩を踏み出さなければならない。
キリスト者の希望は、現代社会の状況から私たちを切り離すというよりは、むしろ結び合わせる。偶像と偽りのイデオロギーを打ち捨てよと、私たち全員に呼びかけられていますが、最初の一歩の性質と困難さは、状況に応じて変わってくるのです。
私たちのただ中にある硬直した国家主義のイデオロギーの場合は、安全や繁栄のイデオロギーを捨て去ることとは違う第一歩が必要とされる。しかし、踏み出し方にはいろいろあるが、呼びかけはすべて同じである。私たちは、信頼を置いているそれらの手段とおおやけに手を切り、私たちにとって人生の意味を定義するそれらの目標と距離を置かなければならない。これらの目標と手段は、従順の実践と、純真でイデオロギー的要素のない愛に対して障害となる。私たちを抑圧する人間に対して具体的な正義の行為をなすことを拒み、圧力や恐喝が私たちに対して行われるあらゆるところで、真理とあわれみを実践することを拒む。右の呼びかけに従うことで、第一に自分の名声、第二に所属する政党、教会、第三に地域社会とのつながり、第四に自分のいのちが犠牲となるだろう。
しかし、
敢えて最初の第一歩を踏み出すことが、内に生きている希望にこたえる者たちの、唯一の選択なのである。