今日は。 本日は、「中央公論 2019年1月号」の特集・宗教が分断する世界 「新・人間革命」完結にみる創価学会のゆく から、創価学会について知る、又 キリスト教について勉強したいという方のために、佐藤氏の「力作」をお届けします。ご本人は、同志社大学大学院神学研究科で組織神学を研究された方です。
略歴は末尾をご覧ください。
キリスト教と創価学会 佐藤 優(さとうまさる)
創価学会は、政治、経済、教育、文化などあらゆる分野で、無視できない影響力を持つ宗教団体だ。
また、創価学会を支持母体とする公明党は、自民党とともに連立与党を担っている。そして、創価学会は、SGI(創価学会インターナショナル)という、192か国・地域のメンバーからなる国際的機構を擁している。創価学会は、出版物、ホームページなどで情報を詳しく開示している。しかし、創価学会関係者や、宗教学者、あるいは創価学会ウオッチャーと言われる人々以外はこれらの情報にアクセスしようとしない。筆者は創価学会員ではない。日本のプロテスタント最大教派である日本基督教団に所属するキリスト教徒だ。また、同志社大学神学部と同大学院神学研究家で組織神学(キリスト教の教義)を研究した。現在も、同神学部客員教授として後進の神学生たちの教育に従事している。一人の宗教人として、創価学会に対しては関心を持っている。ただし、筆者のアプローチは、客観性を強調する宗教学者や、池田大作SGI会長(創価学会名誉会長)や創価学会を非難することを目的とする創価学会ウオッチャーとは異なる。一人の宗教人として、他宗教である創価学会に敬意を払いながら、その内在的論理を読み解くという方法をとる。
キリスト教神学にエキュメニカル神学という術語がある。エキュメニカルとは、古典ギリシャ語で人間が住んでいる土地を意味するオイクメネーに由来する。そこから、教派の枠組みを超えて、キリスト教会が相互理解を深め、再一致を目指す運動をエキュメニズムといい、それを理論的に基礎づけるのがエキュメニカル神学である。現在では、エキュメニズムの概念は、キリスト教の枠をこえて、他宗教や無神論者・無宗教者との対話にも拡大している。筆者は、エキュメニズムの立場から創価学会を理解しようと試みている。その場合、創価学会の内在的論理をとらえることが何より重要になる。
2018年11月18日の奥付で『新・人間革命』の最終巻にあたる第30巻(下)が聖教新聞社から刊行された。この日付には特別の意味がある。1930年のこの日に、牧口常三郎(つねさぶろう)・創価教育学会(創価学会の前身)会長によって、『創価教育学体系』の第一巻が刊行された。この意義について、創価学会公式サイトでこう説明されている。<11月18日は、創価学会創立記念日です。1930(昭和5)年のこの日、牧口常三郎初代会長の著書『創価教育学体系』の第一巻が発刊されました。/ 牧口会長は、1871(明治4)年6月6日、現在の新潟県柏崎市に生まれ、北海道で教員となり、以後、教育者の道を歩みました。/
(中略)牧口会長が自らの決意を真っ先に語ったのは、愛弟子である後の戸田(とだ)城(じょう)聖(せい)第二代会長に対してでした。/ 1929(昭和4)年2月のある夜、思いを聞かされた弟子は、師の教育学説は自分が出版しようと決意します。「先生の教育学は何が目的ですか」「価値を創造することだ」「では先生、創価教育と決めましょう」/(中略)1930年(昭和5)年11月18日。『創価教育学体系』第一巻の出版の日が、師と弟子たった二人の『創価教育学会』の出発でした。これが現在の創価学会が創立された歴史的な日となったのです。>
(弾圧を経て、世界宗教を目指す)
この日はまた牧口初代会長が獄死した日でもある。太平洋戦争中、牧口氏、戸田氏は、特高警察によって、治安維持法違反と不敬罪の容疑で逮捕された。両氏は非転向を貫いた。牧口氏の殉教に関して、創価学会公式サイトはこう説明している。<11月18日は、牧口初代会長の命日でもあります。/ 戦争に突き進む日本の軍部政府は、昭和10年代後半から、本格的に思想の統制に乗り出し、やがて、国家神道を全国民に強制するという暴挙に出ます。/
牧口会長は、これに真っ向から抵抗。各地で活発に座談会を開催し、軍国思想を堂々と批判し、仏法の正義を説き続けたのです。迫害は必至でした。徳高警察は、1943(昭和18)年7月6日、牧口会長・戸田城聖理事長をはじめとする創価教育学会の幹部21人を治安維持法違反・不敬罪の容疑で逮捕、投獄したのです。/
真冬に暖房のない極寒の暖房、栄養失調になるほどのわずかな食事、連日の厳しい取調べ――――それでも牧口会長は、信念を曲げることなく、不屈の闘争を貫きます。しかし、牢獄での過酷な日々は、70歳を超えていた牧口会長の体を確実にむしばんでいきました。/
1944(昭和19)年(中略)11月18日。牧口会長は獄中で亡くなります。73歳でした。>
筆者が創価学会に対して敬意を抱くのは、あの時代に国家権力の弾圧に対して、徹底的な非暴力抵抗路線を展開したことだ。この場合、筆者は自らが所属する日本基督教団の歴史と対比して考えることにしている。自らが所属する教団の過去を不問にして他の宗教教団について論じることが宗教人として不誠実と考えるからだ。日本基督教団の教会員のうち、ある人々は弾圧に怯え、他の人々は国家主義というイデオロギーに感染し、積極的に戦時体制に協力した。日本基督教団は、1944年の復活祭(四月九日)に教団統理者・富田満の名において、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」を発表し、戦争政策を積極的に支持した。当時のプロテスタント教徒には国家主義が誤った宗教であるという実態が見えなかったのである。筆者は一人のキリスト教神学者としても<多くの宗教者や思想家が、迫害に屈して軍国主義を賛美した暗い時代にあって、牧口会長が貫いた不屈の“精神”は、いまなお不滅の光を放っています。>(創価学会公式サイト)という認識を共有する。
創価学会は、池田大作氏が執筆した小説である『人間革命』を「精神の正史」と位置付ける。『人間革命』の冒頭は、以下の言葉から始まる。<戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた。愚かな指導者たちに、率いられた国民もまた、まことに哀れである。>(池田大作『人間革命 第1巻』聖教ワイド文庫 2013年15頁)
戦争を二度と起こさないというテーマがこの作品で貫かれていることがわかる。敗戦直前の1945年7月3日に戸田城聖第二代会長が豊多摩刑務所から出獄し、創価教育学会を創価学会に改名し、飛躍的に発展させ、池田大作氏(『人間革命』、『新・人間革命』では、山本伸一という名になっている)が1960年5月3日に第三代会長に就任するまでが描かれている。創価学会が日本に基盤を整える過程がよくわかる。創価学会の「精神の正史」の続編である『新・人間革命』の第1巻は、以下の言葉で始まる。<平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第1歩であらねばならない。>(池田大作『新・人間革命 第1巻』聖教新聞社、1998年、11頁)そして32歳の山本伸一が1960年10月2日に米国のハワイに向けて旅立つところから始まっている。「世界に征くんだ」という戸田氏の言葉が、池田氏によって具体化されたのである。まさに世界宣教(創価学会の用語では世界広宣流布)によって創価学会が世界宗教として発展していく過程が、『新・人間革命』の重要なテーマなのである。
(ポスト池田時代は来ない)
池田氏は『新・人間革命 第1巻』の序文でこう記している。<戸外には、緑の木々をやさしく包むように、霧が静かに流れていた。その白いベールの中に、私は、恩師戸田城聖先生を思い描きながら、小説『新・人間革命』の最初の原稿を書き始めた。今年(1993年)8月6日、軽井沢の長野研修道場でのことである。軽井沢は先生の逝去の8か月前、恩師の生涯と精神を、後世に誤りなく伝えるために、私が小説『人間革命』の執筆を決意した、無量の思い出を刻む師弟の誓いの天地である。また、この日は、広島に原爆が投下されてから48周年にあたっていた。戸田先生は、1957年(昭和32年)9月8日、あの原水爆禁止宣言を発表され、遺訓の第一として、その思想を全世界に弘めゆくことを、門下の青年に託された。恩師は、間断なき世界の戦火や、暴政に涙する民衆の声なき声に耳をそばだてながら、しばしばこう語った。「この地球上から悲惨の二字をなくしたい」
それは先生の願いであり、ご決意であられた。師弟は不二である。不二なればこそ、私もまた、恩師の心を抱きしめて、世界を駆け巡り、「平和と幸福の大河」を切り開いてきた。「源流」の偉大さを物語るものは、壮大な川の流れに他ならない。>(前掲書一~二頁)師弟不二が創価学会の基本原理だ。創価学会員は、牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長、池田大作第三代会長の「三代会長」と師弟不二の関係にあるというのが、創価学会の教義の核心をなす。また、創価学会には、基本文書の「会憲」(2017年11月18日施行)がある。会憲第3条に「3代会長」に関する規定がある。<第3条 初代会長牧口常三郎先生、第二代会長戸田城聖先生、第三代会長池田大作先生の「三代会長」は、広宣流布実現への死身(ししん)弘法(ぐほう)の体現者であり、この会の広宣流布の永遠の師匠である。
2 「三代会長」の敬称は、「先生」とする。>
死身(ししん)弘法(ぐほう)とは、身を賭して仏法を広めることを意味する。創価学会員にとって「三代会長」は、「永遠の師匠」なのである。一部の宗教学者や創価学会ウォッチャーが「ポスト池田時代」などという表現を用いることがあるが、このような概念では創価学会の内在的倫理をとらえることはできない。「三代会長」は「永遠の師匠」なので、「ポスト池田時代」などという概念が成立する余地は、創価学会の内在的論理に即するならばまったくないのである。
キリスト教において「ポスト・キリスト時代」などという概念が成立しないことと類比的に理解すればよい。世界宗教には、確固たる原点が存在しなくてはならない。それが「三代会長」なのである。
池田氏は、『新・人間革命』を執筆する動機についてこう述べる。<私が、『人間革命』の続編として、『新・人間革命』の執筆を思い立ったのは、先生亡き後の広宣流布の世界への広がりこそが、恩師の本当の偉大さの証明になると考えたからである。また、恩師の精神を未来永遠に伝えてゆくには、後継の「弟子の道」を書き残さねばならないとの思いからであった。
しかし、それには, どうしても自分のことを書かなければならないことになる。そこに大きなためらいもあった。それに、「世界広布」即「恒久平和」の実現のために、なさねばならない課題も山積している。そのなかで、執筆の時間を作ることができるのかという懸念もあった。できることなら、続編の執筆は誰かにお願いしたいというのが、私の偽らざる心境であった。だが、私の足跡を記せる人はいても、私の心までは描けない。私でなければ分からない真実の学会の歴史がある。(中略)/
種々、思い悩んだが、私は、再び、自らペンを執ることを心に決めた。>(前掲書2~3頁)
『新・人間革命』には、小説という形態で池田大作氏の心が描かれているのである。それだから、読者にはテキストを頭だけでなく、心で読むことが求められる。このようなアプローチが宗教学者やいわゆる創価学会ウオッチャーにはできない。創価学会員、SGIメンバー以外でも、この宗教を 信じる人ならばテキストをどう受け止めるかという視座から『人間革命』と『新・人間革命』を読むことで、創価学会の「精神の正史」の本質をとらえることができると筆者は考えている。エキュメニズムの立場を尊重するキリスト教神学者が他の宗教のテキストに向かうときの標準的な姿勢で筆者も池田大作氏のテキストを読んでいるが、このようなアプローチは日本の宗教学者には、なかなか受け入れられないのである。
『新・人間革命』の最終部分にはこう記されている。
<2001年(平成13年)11月12日、11.18「創価学会創立記念日」を祝賀する本部幹部会が、東京戸田記念講堂で晴れやかに開催された。新世紀第一回の関西総会・北海道栄光総会、男子部・女子部結成五十周年記念幹部会の意義を込めての集いであった。
山本伸一は、スピーチのなかで、皆の労を心からねぎらい、「『断じて負けまいと一念を定め、雄々しく進め!』『人生、何があろうと“信心”で進め!』―――これが仏法者のたましいです」と力説した。そして、青年たちに、後継のバトンを託す思いで語った。「広宣流布の前進にあっても、“本物の弟子”がいるかどうかが問題なんです!」広宣流布という大偉業は、一代で成し遂げることはできない。師から弟子へ、そのまた弟子へと続く継承があってこそ成就される。>(池田大作『新・人間革命 第30巻下』聖教新聞社、2018年、434頁)
創価学会を世界宗教に発展させることは一代ではできない。信仰の継承が重要になる。キリスト教徒のアナロジーで言うならば、日本における創価学会が整えられる活動を中心に執筆された『人間革命』がイエス・キリストの誕生以前の出来事が記された旧約聖書、池田大作氏が創価学会の世界宗教化の基盤を整える『新・人間革命』が新約聖書でイエス・キリストの言葉と行動について記録した福音書に相当する。そして、池田氏は、弟子たちに信仰の継承を訴える。弟子たちの信仰の継承については、イエス・キリストの使徒(弟子)であるペトロやパウロらの活躍が描かれている新約聖書の使徒言行録のようなテキストが今後、創価学会によって編纂されていくことになろうと思う。
(宗教者が政治や国家に対して無関心であることはできない)
『新・人間革命 第30巻下』の末尾には、池田氏による「あとがき」が記されている。ここに『新・人間革命』の主題が、宿命即使命であることが端的に示されている。
<つまり、「宿命」と「使命」とは表裏一体であり、「宿命」は、そのまま、その人固有の尊き「使命」となる。ならば、広布に生き抜くとき、転換できぬ「宿命」など絶対にない。皆が、地涌(じゆ)の菩薩(ぼさつ)(引用者註*釈尊の呼びかけに応えて、迷いと苦難に満ちている現実社会の大地を破って下方の虚空から湧き出た無数の菩薩たち)であり、幸福になる権利がある。皆が、人生の檜舞台で、風雪の冬を陽光の春へ、苦悩を歓喜へと転ずる大ドラマの主人公であり、名優であるのだ。
小説『新・人間革命』では、この「『宿命』は『使命』である」ことを基調に、物語を展開してきた。仏法の精髄の教えは、物事を固定的にとらえるのではなく、「煩悩(ぼんのう)即(そく)菩提(ぼだい)」「生死(しょうじ)即(そく)涅槃(ねはん)」「変毒(へんどく)為(い)薬(やく)」等々、一切を転換しゆく生命のダイナミズムを説き明かしている。そして、苦悩する人間の生命の奥深く、「仏」すなわち、人間のもつ尊極の善性、創造性、主体性を覚醒させ、発現していく道を示している。その生命の変革作業を、私たちは「人間革命」と呼ぶ。>(前掲書447頁)
誰も自らが置かれている条件から出発しなくてはならないこの制約の中で、人間は自由をつかんでいくのだ。転換していく生命のダイナミズムを池田氏は人間革命と呼んでいるのである。人間革命は希望の原理である。キリスト教も創価学会も、宗教は人間の一面を律するものではなく、人間の生活全体が信仰に基礎づけられていると考える世界観型の宗教である。それだから、宗教者が、政治や国家に対して無関心であることはできない。この点について、池田氏はこう述べる。
<社会も、国家も、世界も、それを建設する主体者は人間自身である。「憎悪」も「信頼」も、「蔑視」も「尊敬」も、「戦争」も「平和」も、全ては人間の一念から生まれるものだ。したがって、「人間革命」なくしては、自身の幸福も、社会の繁栄も、世界の恒久平和もあり得ない。この一点を欠けば、さまざまな努力も砂上の楼閣となる。仏法を根幹とした「人間革命」の哲学は、「第三の千年」のスタートを切った人類の新しき道標となろう。「不滅の魂には、同じように不滅の行いが必要である」とは、文豪トルストイの箴言である。小説『新・人間革命』の完結を新しい出発点として、創価の同志が「山本伸一」として立ち、友の幸福のために走り、間断なき不屈の行動をもって、自身の輝ける『人間革命』の歴史を綴られんことを、心から願っている。この世に「不幸」がある限り、広宣流布という人間勝利の大絵巻を、ますます勇壮に、絢爛と織りなしていかねばならない。ゆえに、われらの「広布誓願」の師弟旅は続く。>(前掲書447~448頁)
人間の不幸を克服するのは人間である。創価学会の本質は仏法に基づくヒューマニズムなのである。正しい信仰を持つ人間は、価値を創造することができる。生命をたいせつにする。そして、人間の可能性を信じる。「憎悪」も「信頼」も、「蔑視」も「尊敬」も、「戦争」も「平和」も、全ては人間の一念から生まれるものなのだから、人間には「憎悪」を「信頼」に、「蔑視」を「尊敬」に、「戦争」を「平和」に、転換していく根源的な力がある。キリスト教は人間に原罪があると考えるので、性悪説に傾きがちだ。ただし、真の神で真の人であるイエス・キリストには、神のヒューマニズムが体現されている。キリスト教が説く神のヒューマニズムと創価学会の人間主義には共通の基盤が存在すると筆者は考える。
(2018年11月23日脱稿)
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佐藤優(さとう まさる)
1960年東京都生まれ。英国の陸軍語学学校でロシア語を学び、在ロシア日本大使館勤務を経て、作家に。同志社大学神学部客員教授。著書に「国家の罠」「自壊する帝国」「私のマルクス」「ケンカの流儀」など。最新刊に「米中衝突」(手島龍一氏との共著・中央公論)