論評
荒井 献著 『新約塵書の女性観』
中山貴子(評者)
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本書は,著者(荒井氏)が数年来研究テーマの一 つとしてきた新約聖書と関連文書における女性問題研究の集大成ともいうべきものである。
専門領域のグノーシス文書における女性 (女性原理)の位置づけと対比して新約聖書 の女性観を把握するという著者の研究意図を一層促進させたものが,
1970年代以降のフェミニスト神学の台頭であったことは意義深いことといえよう。女性解放運動におけるキリスト者の責任的役割の一つが,聖書における性差別問題との取り組みであるとすれば,このためには男女両性の率直な対話を欠かすことが出来ない。本書が発刊以来通常の学術書の域をこえて,
とりわけ女性たちに熱心に読まれ論議されているのも,フェミニスト神学成立の歴史的必然性を十分に認識・受容し積極的に対話を試みようとする著者の柔軟な姿勢が好感を呼んでいるためである。
すでに本書をめぐって女性たちによる書評・論評が発表されており,著者(荒井氏)も「フェミニストとの対話」として特に批判・疑義の集中した問題について丁寧な応答を行なっている(「聖書と
教会」 1989年12月号 荒井 献『新約聖書の 女性観一書評に応えて』)。
本書の魅力は,従来独立した神学的課題としては本格的に研究されてこなかった新約聖書の女性観を,これもすでに定評のある著者の批判的・歴史的方法による細部にわたる綿密な論証によって全体的に把握出来る構成になっていることである。しかも学術的労作でありながら,元来が岩波市民セミナーでの講義のため平易で明晰な話し言葉で書かれ大変読みやすい。今後この領域における先駆的研究書としてだけではなく,キリスト教内外を問わず広く女性解放を担っていく者たちの必読の書となるにちがいない。
Ⅱ 本書は10の講義と 2の付録から構成さ れている。
1講「序章一課題と方法」では, 著者の研究動機となった欧・米・日のフェミニス ト神学の動向とその代表的見解の紹介,著者のコメントが付され1970年代以降のフェミニスト神学が概観出来るようになっている。また本書のテーマからいって多様な読者層が考えられるだけに,批判的・歴史的方法によっ
てテクストを厳密に読むという著者の研究方法を踏まえておくことは,今後生産的な識論をしていくためにも欠かせない。その事例と して本書の中心的問題であるイエス伝承とパウロの対照的な女性観が,伝承者の社会的生活形態の相違と深く関連していることをあげている。
2講「イエス伝承の女性観」は,新約聖害の多様な女性観を評価する際のメルクマールともいうべき部分である。福音書の女性たちに対するイエスの評価は,ユダヤ教ラビ文献の女性観とは対照的な時代に突出した内容を持つ。伝道旅行の同伴者としての女性たち(ルカ
8:1-3), 性別役割分業観を 逸脱したマリアを評価(ルカ 10:38-42), 血のクプーを破って女の信頼に応える(マルコ5: 25-34),
社会的弱者である女の側に立つ(マルコ 12:4-44) など,いずれも性差別を負っている女性たちの側に立つイエスの振舞いを示している。受難・復活物語における女性たちの信従は男弟子たちとは対照的に高く評価されている。聖書における「父」
の表象が父権制社会を強化してきたとはいえ,イエスにとって「天にいます父」のみが アパであることは,結果的にこの世の父を相対化させ男性社会から女性を解放し高い地位につくことに貢献したこと,神の愛を女性もしくは母性のイメージで表わす伝統がすでにユダヤ教知恵文学に存在していたことも見落とすことは出来ない。著者はイエス伝承において,女性たちが男性と全く平等かそれ以上に高く評価されていることを強調する。但し
顕現物語伝承の女性たちがパウロの引用したケーリュグマ伝承に含まれていないことは, 男女の位概づけに最初から多様性があったためという。
3, 4, 5講の共観福音書の女性観が以下 イエス伝承の女性観と比較検討される。まず マルコ福音書の受難・復活物語では, 15:41 aの“従って仕える”の編集句によって女性
たちがイエスの生涯-十字架の死と埋葬に至 るまで弟子として忠実な信従をしてきたことが,男弟子たちの裏切りを囲みこむ形で強調されている。
それと同時に15:40の“遠くから”, 16:8の“おののき恐れながら逃げ去った。恐ろしかったからである ”にマルコの女性批判を見ている。著者はここで
E.S.Malborn の解釈を採りつつ, マルコが男女双方の弟子とも単純に理想化せずに男女の読者が 人間的弱さを持つ弟子たちに自己を重ね,
男女が同一の地平に立ってこの弱さを克服し イエスに従って生きることを求めているのだという。
マタイ福音書ではマルコ 16:8が “恐れながらも大喜びで……“命令を伝えたとなっているが,それはガリラヤにいる 11弟子への世界伝道命令に対する単につなぎの役割でしかない。ペテロをはじめ男弟子たちの評価が高められるにつれ,女性たちの評価が弱められ女性蔑視すら出てくる
(14: 21, 20: 20-28)。 ユダヤ人キリスト者マタイの教会の歴史的状況からくる再ユダヤ化現象といえる。
さらにルカ福音書には最も多くの女性が登場するものの,総じて12弟子の地位の強化が行なわれ女性の評価が高められているとはいえない。受難・復活物語においても,十字架刑の目撃者に男性が加わることで証人としての独自性が薄められているほか,顕現も
I コリント 15:3以下同様男弟子に限定されている。ルカには裕福な女性,敬虔な女性,愛の行為に生きる女性を高く評価する傾向がある。ルカ=「神を敬う者」出身のローマ人説を採る著者は,そこに当時のローマ人の女性観の反映,つまり上流階級に属し一定程度解放されていたマトローナ像に,これも中産階級の望む貞節と敬虔を加えた理想の女性観の影響をみている。
6講「ヨハネ福音書の女性観」では,マタイ,ルカ型とは異なってマルコ同様男弟子と対照的に女性を高く評価していることが,サマリアの女,べタニアのマリア,マグダラのマリアなどの例で示されてい
る。イエスの十字架刑を“遠くから”見ていた女性たちは,ヨハネでは“十字架のそばに“たたずんでいる。但しフェミニスト新約学者の評価するマグダラのマリア(20:11-18),
マルタの信仰告白 (11: 27)に対しては,全体の文脈における位置づけが不十分なための理想化があると批判している。ヨハネ福音書の高い女性評価の背後にある小規模セクト教団として自立せざるを得ない厳しい状況が,ユダヤ,
ローマ社会の男女観の浸透を防ぎ結果的に男女平等の相互愛の倫理をうみ出したのだという。福音書の多様な女性観が福音書記者の生きていた歴史的社会的状況と無関係ではなく,その点を外すとドグマ的考え方の出てくる危険性があることを指摘して
いる。
7講「パウロの女性観」では,最も論議のある部分,従ってフェミニスト新約学者の批判の集中する部分を扱っている。パウロ以前 の教会で女性が高い評価を受けていたことは
フェミニストたちの強調する点だが,著者も それには異論はなく, ローマ16章の8回にわたる女性への言及から,教職としての執事, 家の教会の代表,使徒
(16:6のユニア説を支持)の存在を丁寧に論証している。さらに ガラテア 3: 28の“男と女の別もない“(著者訳)の洗礼定式伝承にも男女が平等に機能
した最初期の宜教運動の存在を認めることが出来る。パウロ自身もそのような女性たちの活動に支えられていることを十分に承知しており,高く評価しているといわなければならない。それにもかかわらず同じ洗礼定式伝承
を引用する場合でも, Iコリント 12:13では “男と女の別もない”を削除している。著者は これをコリント教会に対するパウロの牧会的配慮によるものとみて,
11:3-16の分析からその間の事偕を明らかにしようと試みている。 “かしらにおおいをかけない女性”の出現 は,コリント教会におけるパウロの論敵の
「霊的熱狂主義」による具体的行動の一つであって,男女の性の無化・廃棄,両性具有ヘの復帰を唱えるものであった。それに対するパウロの警告は正当であるが,その論拠に問題があり,結果的には女のシンポルであるおおいを男の女に対する権威のしるしとして認めたことで,現実的に女性差別的要因を残してしまった。‘'女のかしらは男であり”,“女が男のために造られた’'といった発言には,パリサイ派律法主義の影響がパウロになお残っていることを示している。また14:33b以下の”婦人達は教会で黙っていなければならない……"の問題発言にある律法への服従,
秩序の絶対的擁護にも,教会員を「子」, 自分を「父」とするパウロの家父長的女性観を指摘することが出来る。こうしたパウロの両義的女性観を著者は,既成の共同体から女性を解放しつつも,ヘレニズム世界の家父長制社会に生きる新しい共同体(教会)に彼女たちを統合しようとして,実際には女性差別的現状を追認するに至ったパウロの理念と現実の乖離によるものとみる。そしてセクシスト
ではないが,フェミニストとはいえないパウロの実像を読者が冷静に見据え,相矛盾する女性観を批判的に評価することを求めている。
8講の「パウロの名によって書かれた手紙の女性観」では, Iペテロ 3: 1-7, コロサイ 3: 18-19, エペソ5: 22-23の夫と妻に関する教えが,当時のヘレニズム・ローマ社会の家父長制的家庭訓(ハウスターフェル)の一部がキリスト教化されたものであること,牧会書簡ではこの傾向が教会のローマ社会に対する護教的動機と異端への警戒からさらに強化されていったものであることを指摘している。その背後に男性優位の秩序を破って‘'男と女の別もない“立場を貫こうとした多くの女性信徒の存在が推定されよう。こうした性差別的発言の背景にある歴史的社会的状況を理解することが,このようなテクストの束縛から解放されるためにも,
どうしても必要であることを納得させてくれる。
9講の「『トマスによる福音害』における女性観」では,正統派教会が女性を教職から排除する時代にあって女性を高く評価していたことは,たといその論拠がグノーシス神話の両性具有の原人神話にあっ
て,具体的な女性の性自体は排除されていたにせよ確認しておくべきことであると評価している。
10講「終章ーまとめにかえて」で, 男女乎等から男性優位,女性蔑視までの多様な女性観をあわせ持つ新約聖書の「正典」性をどう解釈するのかという問題に触れている。この点は読者にとって最も知りたいところであろう。著者は「正典」の中に自らの信仰の基準を選択する自由が保留されていると述ぺ,自己の立場を人間の尊厳に対する最も鋭い惑受性を持つイエス及び彼をめぐる人
人,特に女性たちの姿を描くイエス伝承,福音書記者マルコの志向に重ねている。ここは最も共惑を呼ぶ部分であるにちがいない。
付録 1の「『姦淫の女』の物語と『正典』の 問題」でほ,棄教者のメタファーとして正典に編入された過程を中心に,付録2の「イエスとマグダラのマリア」では,マリアの評価を福音書のテクストから丁寧に分析していて,
1-9講の補論として典味深い。
Ⅲ 著者の手堅い論証は全体を通じて十分 に説得的であって,テクストの分析,解釈に 関して特に異論があるわけではない。筆者(中山)も マルコ福音書のイエスの十字架の死,埋葬,
復活物語における女性たちの信従を“女たち のモティーフ“として特に強調してきた。その反面マルコの女性批判を十分に把えきれていなかったこと,例えば15:40の“遠くから”
が15:34の十字架においてすべての者に捨てられたイエスの死に対応するものでありながら,女性たちの評価のゆえに批判しきれていなかった点を指摘される思いであった。福音書関係で最も典味を持ったのは,福音書伝承の担い手の問題である。著者はガラテア
3: 28以下の“男と女の別もない”の背景に福音書伝承の担い手の影響を推定する。
また顕現物語伝承における女性のリストにも,それを含まないケーリュグマ伝承に対する女性の地位の復権の可能性を見ている。これらについてより詳しい論証を展開してほしかったと思う。イエス伝承•福音書伝承の担い手が,家父長制社会から離脱,放浪という生活形態をとりながら既成の価値観とは異質の新しい運動体を形成していったとすれば,その担い手であった女性たちが結果として持っていた
Radikalismusは大変なものであったろう。
ユダヤ, ローマ社会にあってイエス運動に, 初期の教会に自己解放を託した女性たちの歴史的存在をテクストから,テクストの背後からどれだけ明らかに出来るだろうか。新約聖書の多様な女性観とは,時代を突出したRadikalなフェミニズム的女性観が,世俗社会の秩序の枠内で誰にも“危害“を及ぽさない穏当な性別役割分業的秩序を持った女性観に変質させられていく過程だともいえる。しかし女性たちがイエス伝承,マルコ福音書の女性観に立つ限り,パウロの両義的女性観をどのように弁護され合理的説明を受けても,そこに解放のメッセージをきくことは出来ないであろう。著者は
Iコリント 11:3以下, 12: 3以下の解釈で,パウロの牧会的配慮を想定せざるを得ないと理解を示している。もちろん著者はテクストの背景である歴史的状況を推論しているのであって,パウロの見解をそのまま肯定しているわけではない。ただこのような場合に使われる“牧会的配慮”という言葉は,しばしば女性たちに限らず弱い立場にある者たちの自己主張を阻止し、現状肯定のために用いられやすい。牧会的配慮の美名のもとに、この世の価値観と摩擦を起こさないための処世術がまかり通る危険性があり、女性たちはこの言葉に特に敏感にならざるを得ない。
問題はテクストの歴史的社会的背景を明らかにした著者の研究成果を、実際に聖書の性差別問題の解決のために どのようにいかしていくかということである。例えばルカ10:38-42のマルタとマリアの物語は、伝承のレベルでは女性の性別役割分業的価値観から、マリアとマルタを共に解放したイエスの振舞いが、ルカのレベルでは男女を問わず信仰者の理想像が強調されている。従ってイエス伝承とルカの解釈の双方を理解することが、マルタとマリアに女性たちを分断するような説教や解釈から女性たちを開放することになる。
ところで本書の書評・論評の中には、しばしば著者(荒井氏)にテクストを離れて直接現代の問題として応答することを求め、女性解放の視座を得ようとして学術書以上の踏み込みを期待しているものがある。それに対して、著者はあくまでテクストに忠実に学問的論証の可能な範囲内で誠実に応答しようとしている。問われるべきなのは、性差別的問題を含むテクストの成立背景を理解することで自己満足してしまい、テクストの評価を徹底させ女性解放へつなげていく努力がまだ不十分な現実状況なのではないだろうか。著者の研究成果を今後十分に活用して、実りある対話が広がっていくことを期待したい。
荒井 献(あらい ささぐ、1930年5月6日 - )は、日本の新約聖書学者・グノーシス主義研究者。学位は、神学博士(ドイツ・エアランゲン=ニュルンベルク大学)。東京大学名誉教授、恵泉女学園大学名誉教授。日本学士院会員。
中山貴子(なかやまたかこ)
株式会社コミュニケーターズ代表取締役、通訳養成機関「土曜学校」校長、会議通訳者
国際基督教大学在学中に日本の異文化間コミュニケーションのパイオニアといわれる斎藤美津子教授(*)に師事、通訳に関心を持つ。卒業後、斎藤博士主宰の「土曜学校」を手伝いながら勉強を続け、フリーランス通訳者の道へ。会議通訳・日英ニュース放送同時通訳のキャリアを積むと同時に通訳養成機関の講師も務める。1986年、土曜学校の仲間とともにコミュニケーターズ設立に関わる。その後、モントレー国際大学通訳翻訳学科客員教員、米国でのフリーランス通訳活動を経て、2004年、株式会社コミュニケーターズ代表取締役に就任。(*)日本で初めて異文化間コミュニケーションの博士号を取得。国際基督教大学で教鞭を取り、多くの通訳者を育成。著書の「はなしことばの科学」「聴き方の理論」は当時ベストセラーに。