今日は。本日は「21世紀の国家と教会」というテーマで、「キリスト教会2000年」(世紀別にみる教会史)から学びたいと思います。
近代国家とは、官僚制、軍隊、教育、言語などを駆使して、自己の利益のみを追求するあたらしい国家です。「宗教は、国家主義という家の窓のカーテンのようなもの」とする近代国家の宗教政策は、教会にとって、重大で、無視できないものでした。近代国家にとって、宗教はあるにこしたことはないが、なくてもよいアクセサリーなのです。
ナポレオンの支配したフランスでは、ローマ教皇庁と妥協して、「宗教協約」を結び、カトリック教会の特権と聖職者の俸給は保証しましたが、他方で、主教の任命権と聖職者の第一身分としての特権は教会から取り上げてしまいました。また、1802年には、「カトリック教会宗教法令」を国内向けに発布し、国家が意のままに宗教を統制し得ることを主張しました。プロテスタントにも同様の法令が出され、宗教上の集会は届け出が、また教会会議の決定は事前に、国家からの許可が必要となってきました。オランダ、ベルギー、スイス、ドイツ、イタリアなどナポレオンの軍隊が支配した国々では、フランス革命の理念がこれらの国々にも広まりました。1806年の神聖ローマ帝国の崩壊は、中世キリスト教社会の遺産として、象徴的な出来事でした。ナポレオンの宗教政策は基本的には、征服された国々に踏襲されました。そのため、この時代の教会の最大の関心事は、国家との関係でした。フランス革命の申し子としての「国家主義」の強力な前進に巻き込まれ、押し流される教会の姿が19世紀の教会には見られます。
何よりも近代国家を動かすのは、行政(官僚)なのです。教会の苦難は、18世紀の「理性の時代」とともにやってきましたが、その理性が近代的自我を生み出し、近代国家を造り上げたのです。得体のしれない海の怪獣(リヴァイアサン)にもたとえられる、近代国家は、教会を管理しようとします。キリスト教信仰は、合理主義精神や世俗的・異教的な文化の侵入で、教会は神を呼び求める苦難の日に突入したのです。
今や「教会と国家」の関係は消滅し、代わって「国家と教会」という、国家が中心となって、教会のあり方を国家の都合の良いように決める時代に突入したのです。教会はもはや、街の中心部にはなく、街の辺縁部に位置するのです。時代は、社会の進歩・発展を要求し、新知識の拡大、科学的方法論の確立と学問の自由、産業革命以来の効率的・合理的な生活様式の改善、個人主義、自由商業や資本主義の進展に伴う社会の再編成、西欧中心文化の全世界への拡散、楽観主義等が大手を振って、自己主張しています。この新しい気運は、聖書の真理性そのものよりは、聖書に対する人間の反応にキリスト教信仰の基礎が置かれてきたことを示しています。主観的で、人間の理性にも当てはまるキリスト教が強調されます。神学者シュライアマハー(1768-1834年)は、宗教を絶対依存の感情と定義し、キリスト教が他宗教に比べて優れている点は、その啓示の真実性や教理体系の一貫性にあるのではなく、その宗教性にあるとしました。理性の攻撃の手の届かない主観的感情に信仰の基礎を置いたのです。プロテスタント神学に侵入してきた新しい「進歩・発展の理念」に、自由主義があります。自由主義神学は、別名、歴史主義神学とも呼ばれ、歴史や歴史認識に対するナイーブな信頼が特徴です。バウル(1792-1860年)やリッチュル(1822-1889年)、ハルナック(1851-1930年)がいます。彼らにとって、キリスト教の本質とは、キリスト教の歴史的「現実性」であり、彼らの立場では、キリストの復活が起きたかどうかは問題ではなく、復活が起きたと信じた教会が歴史的に存在したことが大切なのです。プロテスタント陣営は、正統主義や福音主義が聖書の真実性や歴史性を主張して、保守的神学を弁証しました。ロマン主義や自由主義への反論や攻撃もなされています。聖書的キリスト教弁護のため、1846年ロンドンで「福音主義同盟」が結成され、聖書の霊感と権威・三位一体・人間の堕罪性、信仰義認など9項目の教理原則の確認・承認がなされました。ルター派正統主義は、福音主義の雑誌で、シュライアマハーや自由主義を攻撃しました。改革派正統主義も、USA長老教会系のプリンストン神学校が、プリンストン神学を主張しています。国家主義、ロマン主義、自由主義をはじめ、進歩的とみられた多くの運動が、カトリックからは、「反カトリック」と否定されています。カトリックの反動的傾向は、聖母無原罪懐胎の教義(1854年)、「教皇無病性の教義」(1869年)、を第一バチカン公会議で、公式採択したことからも明確です。
(最暗黒のイギリス)
19世紀のイギリスは、進歩・発展の陰に近代社会特有の問題を発生させました。イギリスに始まった産業革命は、都市労働人口を増加させ、大都市に貧民窟をつくりだしました。地方での教会生活から断ち切られ、都市の教会からも受け入れられず、多くの都市労働者は、信仰から離れて行きました。キリスト教会は、これらの問題に対して、敬虔主義やウェスレーに見られるような福音主義の立場から、真摯な取り組みがありました。個人の回心や信仰を強調する立場なのですが、そこから必然的に、「実践的適用として社会奉仕に発展するもの」、と主張しました。回心から社会奉仕への短絡的とも見える転換が、この立場の取り組みにユニークなエネルギーを与えました。①貧者や弱者の救済、②少年労働禁止、③牢獄改革、④奴隷制廃止、⑤教育改革などの運動の初期活動家の多くがこの敬虔主義や福音主義の流れから出ました。もちろん、これらの社会奉仕そのものが最終目標ではなく、それはあくまでも全人間を生ける神へと回心させるという目的のための手段でした。これらは「内国伝道」という考えの一環として社会奉仕が位置付けられたのです。そして日曜学校協会、聖書協会、トラクト協会、YMCA,YWCA,救世軍などの「内国伝道団体」が誕生しました。救世軍の創設者でメソジストの牧師、ウィリアム・ブースは、1865年、ロンドン東部で働くよう神の召命を受けました。そこには、貧困、失業、過度の人口集積、酒浸り、犯罪、不道徳など多くの社会悪が生じていたのです。彼は名著「最暗黒のイギリスとその出路」(1890年)を著し、当時、暗黒大陸といわれたアフリカにではなく、最先進国のイギリスにこそ社会の暗黒があると訴えました。しかし、このような社会奉仕をナイーブで偽善的とする団体も現れ、社会問題そのものの解決を目指す、キリスト教団体も現れました。アメリカの社会的福音、イギリスのクリスチャン・ソーシャル・ユニオン(現在は、Industrial
Christian Fellowship(ICF))は、労働運動から政党運動までの広い社会運動を展開しました。
(紀元二十世紀-平和・正義・真理と教会)この二十世紀にキリスト教会はついに突入しました。2,000年近くも存続した、世界でもまれな組織体として、教会は生き残ったのです。「からし種」のようなささやかな出発でしたが、ローマ帝国の迫害、ゲルマン諸部族の侵入、イスラム教の侵略、中世西方社会形成の責任、宗教改革、近代思想の挑戦、近代国家の抑圧など、その歩みは戦いの連続でした。もちろん、神の摂理に導かれ、信仰の大盾、救いのかぶと、み霊の剣である神のことばなどの「神の武具」をもっての戦いでした。しかし二十世紀は、これまでとは比較にならないほど厳しい情況を教会に押しつけてきました。二つの世界大戦、独・伊・日のファシズムの台頭、六百万ユダヤ人の虐殺、そして広島と長崎の原爆投下。さらに、ベトナム、アフガニスタン、・・・・・・。平和・正義・真理に対するキリスト教会の姿勢が厳しく問われている時代です。「腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはき・・・・」(エペソ6・14,15)とあるように、神の武具で装うべき教会そのものの存在意義が問われている、まさに瀬戸際といえましょう。
(二十世紀の神話)先に、十九世紀の教会を」「進歩を追求する」と見ましたが、「発展」とか「進歩」という楽観主義の夢が世界に満ちていた時代でした。二十世紀は国家主義の全盛時代です。国家主義の最も醜い姿、すなわち宗教的な装いをもって権力を絶対化する国家の神格化が、暴露された時代でした。ナチス・ドイツや日本の天皇制絶対主義が好例でしたが、五十歩百歩で程度の差こそあれ、神格化の傾向は近代国家一般に見られます。そして、何よりも悲劇的なことは、「平和の福音」を身にしたキリスト教会が、例外はあったにせよ、国家主義やその神格化に対して、全般的に無力であったという事実です。受難の世紀を迎えたのはロシア正教会。帝政ロシア国家組織に組み込まれた教会は、1917年の十月革命を機に、社会主義体制下に置かれました。初期の共産党独裁政権は露骨な反キリスト教政策をとり、教会財産の没収と教職者の追放・処刑が続きました。憲法でいう宗教の自由も、国家機関を動員しての反宗教プロパガンダの自由との抱き合わせでした。レーニンによれば、「善い宗教は皆無。ましな宗教といえども低俗な宗教よりもっと危険」でした。ソビエトのような社会主義国では、教会はイデオロギーや国家主義との関連での生存を余儀なくされました。毛沢東の中国における三自愛国運動の教会も一例です。反面ソビエトには、バプテスト派をはじめ数百万の自由教会・地下教会のメンバーがいることも忘れられません。
(カーネギーとマルクス)正義、とりわけ社会正義の問題も二十世紀の教会を大きく揺り動かしました。「正義の胸当て」を着ける教会の真価・責任ある対応が問われたのです。一般に、教会の対応は、いずれも十九世紀に端を発する、二つの極端な立場の間に位置づけられました。一つはカーネギーの福音、もう一つはマルクスの革命理論です。
① カーネギーの福音:大財閥を築いたアメリカのカーネギーは、1889年に「冨者の福音」を提唱し、個人主義の倫理をたてました。「神は自らを助くる者を助く」の原則に従い、冨者を神が祝福した者ととらえたのです。
富を持つものの本当の責任について書いている本。安易な寄付が、怠惰なホームレスを増やしていること、富は努力をしていて支援を必要とする人に有効に与えられるべきであること、富は公共の利益のために使われるべきであること。本当にそのとおりだと思う。一方、これは事業者が富を運用する場合の話であって、また政治は違うのだろうとも思う。
② マルクスの革命理論:「革命の神学は、マルクス主義との対話を通して、革命を正義実現の手段とするもの。
① と②の中間に位置し、実施者によっていくつかのブレがあるものは以下の通り。
●教会の慈善事業の一環として、福祉、教育、医療活動を実施する。
●アメリカのニューヨークのスラム街での生活体験をもとに、「社会的福音のための神学」(1917年)を書いた、ラウシェンブシュの社会的福音を実践する。社会全般の改革によって、すべての人の救いが達成されると主張する。日本の代表的伝道者の賀川豊彦とほぼ同じ主張。
●貧困などからの解放を目的とした「解放の神学」を実践する。
●解放の神学と同じ視線で、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(1929- 1968年)は、アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師であ る。市民やメディアからキング牧師と呼ばれ、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として活動したが、1968年に暗殺された。「I
Have a Dream(私には夢がある)」の一節で知られる有名な演説を行った人物。
ブラジルで解放の神学を実践したエウデル カマラ(1909‐1999年)「貧しい者に食物を与えると、人は私を聖者と呼ぶ。なぜ彼らは貧しい のか尋ねると、人は私を共産主義者と呼ぶ」
●アフリカの医療活動のシュバイツアーやインドで奉仕活動をしたマザーテレサのキリスト教博愛主義・平和主義を実践する。
上記の実践に加え、社会正義問題と総括的に取り組んだ運動として、プロテスタントの世界教会協議会(WCC)とカトリックの第二バチカン公会議があります。これらは二十世紀の教会史上金字塔的運動といえます。1948年発足の世界教会協議会は、当初、教会・宣教中心だったが、次第に「神の宣教」としての世界、世界のための教会を強調するに至りました。この協議会では、「今日における救い」も「解放」と理解します。(救いや救済ではなく)
第二バチカン公会議(1962-1965年)は、現代社会と取り組むカトリック教会の姿勢を「現代世界憲章」に明文化しました。その冒頭で、全人類との連帯性に触れています。「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみは・・・・キリストの弟子たちとの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある」と。
従来宣教を強調し、社会参与を軽視してきた福音派は、1974年のローザンヌ世界伝道会議で、宣教と政治・社会的行動を区別しながらも、両者(宣教VS政治・社会的行動)をキリスト者の務めであると、言明しています。
自由主義にとってかわったバルトやブルンナーの新正統主義神学は、世界教会協議会の結成にも貢献したものの、今世紀後期に入るや新神学は後退し、代わってブルトマンの実存論神学、そして後ブルトマン学派、希望の神学などと細分化が進み、福音理解は混とんとして来ています。同様の現象は宣教、特に海外宣教の分野でも見られました。ラトウレットは今世紀の宣教を「嵐の中の前進」と評しました。しかし、その前身は世界教会協議会非加盟の教会で一層顕著で、加盟教会では、宣教の理念や、宣教師の「モラトリウム」で、混乱が見られます。これに対し、積極的な宣教に終始する福音主義は、今世紀後半大躍進を遂げています。ビリー・グラハムに代表される大衆伝道に触発されたベルリン(1966年)とローザンヌ(1974年)の世界伝道会議は、福音主義の世界的勢力を示しました。
21世紀に入りました。世界情勢はアフガニスタン、ウクライナなど、危機的情勢です。この二十世紀が提起した平和・正義・真理の問題が、教会の手に負えない広大かつ深刻なものであることを痛感します。そして、問題の解決者として不信の国家が「全能者」ぶって登場する事態を見るのです。ちょうど、ヨハネの黙示録13章でいう、海から上がってきた一匹の獣のように・・・・。この危機におけるキリスト者の「審判者」への祈りは、「主よ、来てください(マ ラ ナ サ)」(Iコリント16:22)以外にありません。
2022年7月29日