人は何で生きるのか レフ・トルストイ
北御門二郎 訳
1882年にトルストイは、モスクワの市民調査に参加。この調査で彼は、都市貧民の悲惨な実情を知ります。
そして、このような不正を生み出し、それを許している諸権力を憤り、『さらばわれは何をなすべきか』を書き始める。『懺悔』を発表。発禁処分にあう。
以後トルストイは民話を書き始める。
<いったいなぜ、私は生きていくのか?なぜ何かを望むのか?なぜ何かをなすのか?>もっと別な言い方をすれば私の生に、どうにものがれようもなく迫ってくる死によっても滅ぼされない、何らかの意味があるのだろうか>という疑問が現れ、疑問はますます頻繁に繰り返され、ますますしつこく解答を迫り始めたのだ。
《私の業績が、よしどんなものにせよ,早晩すっかり忘れ去られ、そして何よりも今日---でないならば明日、死がこの私をおそい、私は、元も子もなくなってしまうのではないか。なのに、一体何のためにあくせくせねばならないのか?><私はいったい何者か?>
トルストイは「自然科学から哲学まで、人間が獲得したあらゆる学問の中から、その疑問に対する説明を探した。それでもなんにもみつからなかった」
やがてトルストイは茨の道を通って、その解答が、自ら不合理と考えていた、「神への信仰」の中にあることを、それも、無学で、貧しい、素朴な、額に汗して働く、農民や労働者の信仰の中にこそあることを悟る。しかし、「この大転換は、ある日突然に私の内部に生じたのではない。何十回何百回と、喜びと生気、それに続く絶望と生存不可能の意識を繰り返して、いつのまにか、徐々に生の力が私に帰ってきたのである。」
「私は、神を感じ神を求めるとき、そんな時だけよみがえり、まぎれもなく生きていることに気づく。」
「かくて私の内部及び周辺において全てが未だかつてなかったほど明るく輝き、そしてその光はもう決して私を離れなかった」「神を求めつつ生きよう」
こうして生きる光を得たトルストイは、さらに信仰の問題を掘り下げながら、自身はルバーシカを着、野に出て田畑を耕し、肉食を立ち、野菜と黒パンを糧としながら、今まで書いてきた『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』などの大作を否定し、これからは「民衆と共に生き、人生のために有益な、しかも一般の民衆に理解されるものを、民衆自身の言葉で、民衆自身の表現で、単純に、簡素に、わかり易く」書こうと決意するのである。そのような中から次々と民話が誕生した。
1901年 『復活』の内容が原因で、ギリシャ正教会より破門される。学生、労働者、農民などの民衆はトルストイを支持し、教会および政府への憤激は全国に及ぶ。トルストイは、この破門に、次のように答えた。
「私はまず、わが身の安全より、自らの正教信仰を愛することから出発し、それから、自分の教会よりもキリスト教を愛し、今では地上の何にもまして真理を愛しております。」