フェミニスト聖書学の可能性


ここでは、フェミニストとは何か、について、日本基督教団の福嶋裕子氏(青山学院大学准教授)の講演からご紹介します。


主題講演
福嶋裕子
青山学院大学宗教主任 理工学部准教授

西方町教会協力牧師

フェミニストとは何か、という問いに答えるのは、 簡単をようで困難なものです。その複雑さの一例を 挙げると、差異主義者と普遍主義者の論争がありま す。女性と男性は異なるのだから、女性に育児休暇 などの特別措置を認めるべきだという差異主義に対 し、女性も男性も同じ人間だから女性だけを特別扱いするのほおかしいというのが普遍主義です。どちらにも一理あります。両方の主張をたんに正論かどうかで判断するのではなくて、性の役割で固定化で きない人間というものの営みや社会的状況、そこに ある思想の動きというものを総合的に考察することが重要だと言えます。

フェミニストと言っても、さまざまな立場があります。聖書学という分野におけるフェミニストも多様で定義できません。単純に女性の権利を主張し、 擁護し、要求する運動や活動だけではないのです。 ただひとつ、女性の視点や物語にこだわるとき、従 来の聖書学では考えもしなかった新しい発見があります。

たとえば、ローマの信徒への手紙16章1-2節 にフェベという女性が、パウロによって紹介されています。
<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<
ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフェベを、あなたがたに推薦します。どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。
<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<

フェベは、ケンクレアイの教会の「ディア コノス(奉仕者・聖職者)」、「わたしたちの姉妹」、「多 くの人とわたし〔パウロ〕のプロスタテイス(庇護 者)」と紹介されています。 女性が自立した宣教者であることは、あり得ない という理由で、フェベは教会の女執事(ディアコノ ス)だったと長く見なされてきました。ですが、女性が女性であるゆえに教会の指導者とはなり得ないという見解にどのような学問的証拠があるのでしょうか。

「女執事」というのは初期キリスト教史とし ては、後代に出現した役職です。ロマ書の執筆年代を仮に56-57年とするなら、かなり早い時期のキ リスト教巡回宣教の状況のなかで、フェベが「ディ アコノス」であり、「プロスタテイス」であること を受け止めるべきでしょう。初期キリスト教の巡回 宣教者たちは、見知らぬ教会に行くとき、通常、紹 介状をたずさえて旅したようです。フェベも、そう した巡回宣教者の一人だと考えることは可能です。 しかもパウロが書いたものとしては、唯一の公式の 推薦状を保持する人物です。

パウロが「ディアコノス」を称号的に用いるとき、 「同労者(シュネルゴス)」との互換性が指摘できま す(一コリ3:5,9)。したがって、フェベが「ディア コノス」であるとは、パウロの「同労者(シュネル ゴス)」テモテのように説教し、教会の牧会をまかされていたかもしれません(一テサ3:2)。フェベを、 ケンクレアイ教会で公式に認められた説教者であり 教師だったと考えても差し支えないのです。

さらに大胆な仮説では、コリントの信徒への手紙 二においてパウロが論敵とした「大使徒たち」とフェ ベは似ているというものもあります。これはフェベ をパウロの論敵と見なすのではありません。似てい る、という点がポイントです。第二コリントにおけ るパウロの論敵は、使徒言行録6-8章に登場す るようなギリシア語を話すユダヤ人の宣教者だったと推測できます。彼らは、カリスマ性の高い宣教活動を行い、印象深い説教をし、幻を見ることがあり、 預言をし、真の使徒と呼ばれ、聖霊と知恵に満たさ れていたようです(二コリ12:11-22)。

パウロは、 彼らの説教や神学を批判したのではありません。ただ自分も、真の霊的使徒であると主張するのです(二 コリ11:22-23)。第二コリントにおけるパウロ の論敵は、パウロが共同体の支援をもたず、見栄えのしない姿で、推薦状がないことを批判したようです(二コリ3:1,10:7-11)。裏を返せば第二コリントの「大使徒たち」が属する比較的大きな地域伝道を行う宣教者サークルにおいては、定められた教会からの公式の援助、推薦状、また威厳に満ちた姿 ・態度は、真の説教者・牧会者であることを証明す るために当然のことだったと推測できます。


フェベば、使徒と呼ばれていませんが、こうした 地域伝道グループに所属していた可能性もあるのです。彼女もまた、印象的な説教を行い、尊敬される にふさわしい姿と態度の宣教者だったと想像をたくましくすることは許されないでしょうか。しかも彼女は、何よりもパウロからの推薦状を得て、新しい教会に赴こうとしていました。興味深いことにフェベは、パウロが敵対する宣教者サークルに似たグループに属していた可能性が高いのですが、しかしまたパウロとも友好的な関係を結んでいました。 フェベは、テモテが「わたしたちの兄弟」と呼ばれるのと同じように、同労の宣教者への親しみと尊敬 をこめて「わたしたちの姉妹」と呼ばれていると理解できます(一テサ3:2)。

彼女の「プロスタテイス」という称号によって、 どのような権利をもっていたのか具体的に知ることは困難です。通常、「プロスタテイス」の男性形「プ ロスタトス」は法的機関に対するアクセス権をもっ ています。女性が女性であるゆえに、法律の領域から締め出されていたと一律に断定することは早計で す。初期のキリスト教宣教運動においては、「国際 化したユダヤ人、それも一部の非常に知的に洗練された人々」が、教会という中間団体の後援者となることがありました。家の教会には富裕で地元では有名な上流の女性たちが多くいた、とルカは述べてい ます(便17:4,12)。

教会で、また教会に来る個人に、 政治や裁判上のトラブルがあるとき、上流階層のキ リスト者は、自分の縁故・友人関係・影響力を使っ てそうした教会員を助けることができました。しか しフェベは、父、夫、兄弟、後見人といった男性との関係を抜きに、パウロにとって「プロスタテイス (庇護者)」なのです。フェベは、教会の外において も社会的な地位を享受できた女性だったのかもしれ ません。

フェベの推薦状には、ほかに多くの女性の名前が登場します。「同労者」プリスカ、「使徒」ユニアス、「熱 心に苦労してきた」マリア、トリフアイナ、トリフォ サ、ベルシス。ほかにもユリア(ローマ16:1-16)。 彼女たちは、パウロと等しく宣教にたずさわったようですが、パウロの助手でも補佐役でもありません。 パウロの同労者のうち5名の男性エラスト、マルコ、 テモテ、テトス、テキクスは、パウロに仕え、彼の 指示に従う従属的な立場にいますが、女性の同労者 たちは、むしろパウロと友好関係にありつつ、対等な宣教基盤をもっていたようです。

プリスカとアキラ、アンドロニコとユニアス、こ の二組のカップルは、夫が導く夫唱婦随の夫婦とは異なるようです(ローマ16:3,7)。この夫婦以外にもフイロロゴとユリアも夫婦の宣教者だったかもしれ ません(ローマ16:15)。通常の手紙の挨拶などでは、 妻の名前は省略されます。しかしプリスカとアキラ の場合、妻の名前が、夫より先に置かれています。 プリスカは夫と同等、あるいはそれ以上に重んじら れた宣教者だった可能性があります(ローマ16:3,4. ただし一コリ16:19は夫が先)。これは使徒言行録 でも同じです(使18:18,26)。

使徒言行録は、ローマ書の数十年後に書かれたわけ ですが、プリスカとアキラの足取りをいくらか追う ことができます。彼らは、49年のクラウディウス 帝のユダヤ人追放令によりローマからコリントに移 住し、パウロに出会いました(使18章)。彼らは、 49年の追放前に、ローマで家の教会を主宰してい たと考えられます。プリスカとアキラが、ローマの 教会をとおしてエルサレムやアンテイオギアの教会 とつながりがなかったとは言い切れません。

プリスカとアキラとパウロは、同じ職業(天幕作 り)のため、コリントではパウロが彼らの家に泊まっ ていました。プリスカもアキラも教会から経済的に 自立していたことがわかります。彼ら三名はコリン トにしばらく滞在した後、一緒にエフェソまで旅を 続け、そこで別れました。エフェソでプリスカとア キラは、ユダヤ人キリスト者で聖書について「最も 博識で雄弁な宣教者」アポロに出会います。アレキ サンドリア生まれのアポロが「熱心に語り」とある のは「霊において燃えるように語り」という意味で す。プリスカはアポロに教理を詳しく教えた、とル カは述べています。プリスカとアキラが書き残した 文書は存在しませんが、彼らは、パウロとは異なる かたちで、豊かなキリスト教神学を形成していた可 能性もあります。

アンドロニコとユニアスも、ユダヤ人キリスト者 で、タルソス出身だろうと言われています。彼らは パウロより先にキリスト教に回心し、アンテイオギ アでパウロと共にはたらき、投獄さえもパウロと運 命を共にしたようです。ヤコブと共に復活のキリス トの幻を受けたエルサレムの使徒サークルに属して いたことば、あり得ることです(一コリ15:7)。し かも彼らは卓越した使徒のはたらきをしていまし た。(参照B.S.フイオレンツア『彼女を記念して』 255-258頁)

ローマ書16章は、女性の宣教者の存在を伝えてく れますが、彼女たちがどのような啓示を受け、どの ような神学のもとに伝道したかを知ることは不可能 に近いのかもしれません。この沈黙を少しでも解く ためには聖書外の周辺的な歴史の知識を知る必要が あります。ただし、これらの知識は間接的なものにすぎないことを心に留めておく必要はあります。

そ うした知識の一つとして、見逃されがちなのですが、 古代の人々は、性(セックス)は一つしかないと考 えていました。これをワンセックス・モデルと呼ぶ ことがあります。要約すると、男性も女性も同じ牲 器をもつが、男性のそれは体の外側にあり、女性の それは体の内側にはあるという違いがあるにすぎな いというものです。現代のわたしたちには、ツーセッ クス・モデルで人間の性を見ています。つまり男性 と女性という二つの異なる性がある、という考え方 です。ワンセックス・モデルから、ツーセックス・ モデルへの移行は、近代になってからです。しかし 科学の発見だけが、ツーセックス・モデルを採用する原因ではありません。

このあたりのことは、トマ ス・ラカー『セックスの発明』に詳しく検証されて います。非常に手短に言えば、科学の真実(と信じていること)がわたしたちの「性」のあり方を決め るのではなく、文化とそのイデオロギーの影響力は 大きいということです。ワンセックス・モデルの考 え方の一つは、女性は人間としては不完全だという ことです。それゆえ、より明確な判断力をもった男 性に従うべきなのです。きっと、これはおかしいと 感じた女性たちは、古代にもいたはずです

初期キリスト教の教会は、女性をそのままの状態 で「ひとりの人間」として受け入れました。それが ローマ書16章に記録されている女性たちにつながっ ていったのではないでしょうか。彼女たちが、人間 としてもつことができた尊厳、自分たちができそこ ないの存在ではないという自覚は、彼女たちの福音 の中心的な位置を占めていたのではないでしょう か。