プロテスタントとカトリック、正教

キリスト教は、大別して、1 正教、 2. ローマカトリック、 3. プロテスタント、に分かれます。
よく、これらの違いは何ですか?と聞かれる方がありますが、正確に説明するためには、これらの「教義」に立ち入る必要があります。私も専門家ではないので、正確を期すために、「新キリスト教辞典」から、見ていくことにいたしましょう。なお、執筆者は丸山忠孝氏です。

<教会会議>
信仰、戒規、倫理に関する諸問題を審議し、教会の意思を明らかにするための、教会の代表者たちによる会議の総称です。プロテスタントでは、一つの教会の会員全員で行われる「会員総会」をもって、教会会議とすることがあります。


㈠ 原型と初期の教会会議
教会会議の原型は、エルサレムで開かれた使徒会議に見いだされます。異邦人キリスト者への割礼の必要をめぐってアンテオケ教会から派遣された使徒パウロやバルナバなどがエルサレム教会の使徒や長老たちと会議を行いました。( 新約聖書 使徒15章 )この会議にはエルサレムの全教会も何らかの形で関与し、決議事項は会議で宣言され、また、文書をもってアンテオケ、シリヤ、キリキヤ地方の諸教会に伝達されました。( しかしプロテスタント諸教会が、この会議を聖書的範例として重視し、その形式をそれぞれの教会において教会政治に適用しようとするのであるが、紀元1世紀から2世紀後半にかけての教会が実際にこの形式で教会会議を行ったという歴史的証拠は、残念ながら、残っていない。
 教会組織が次第に発達するにつれて、教会行政上の一定地域(*教区、主教区など)内での多様な会議形式の発生、とりわけ会議における主教の卓越した役割などの顕著な傾向が見られました。
 さらに主教制度が管区主教、ローマ帝国の州都の大主教(メトロポリタン)、キリスト教の大中心地の主教であるローマ教皇や、エルサレム、アンテオケ、アレキサンドリアの総主教、と位階的に分化する中で、教会会議も同様に下級から上級の会議へと分化しました。

  教会会議の議事進行の形式においても、ローマの元老院が模範とされ、元老院における皇帝ないしはその特使が占める地位を教会会議では主席主教が占めたといわれています。

第一回総会議( 世界教会会議 )である、ニカイアの会議におけるコンスタンティーヌス大帝の役割も理解できます。

㈡ 東方教会総会議
  古代教会の教会会議の歴史における一大転機は、キリスト教の公認に伴う、従来大主教が招集した州単位の教会会議や教皇や総主教が招集したより大きな単位の教会会議を超えた帝国大の世界教会会議( Ecumenical Council )の出現でした。これは本来、主教区、大主教区、総主教区などの会議が教会の自主的な意思決定機関であったのとは別に、帝国の宗教政策の一環としてその必要が生じたものです。


  それゆえ、ローマ皇帝ないしは東ローマ皇帝が会議の召集者であり、東方と西方の全教会を代表する主教が招かれることを原則としました。

これらは①キリスト教の主要な「教理」の樹立、②異端者の処罰、③教会法規の整備など、需要な意義を持つものでした。

このカテゴリーに属するものは以下の8会議です。
① ニカイア( 325年 )主要決議事項:三位一体論、アリウス主義排斥、復活日制定、


② 第一コンスタンチノーポリス( 381年 )主要決議事項:三位一体論確立、アリウス主義の最終的排斥、ニカイア信条の再確認


③ エペソ( 431年 )主要決議事項:ネストリウス主義排斥、マリヤ「神の母」の称号


④ カルケドン( 451年  )主要決議事項:キリスト二性一人格論確立、キリスト単性論、


⑤ 第二コンスタンチノーポリス( 553年 )主要決議事項:ネストリウス主義の「三章」排斥、


⑥ 第三コンスタンチノーポリス( 680-681年  )主要決議事項:キリスト単意論排斥


⑦ 第二ニカイア( 787年 )主要決議事項:画像崇敬確立、画像破壊論排斥、


⑧ 第四コンスタンチノーポリス( 869-870年  )主要決議事項:コンスタンチのポリス総主教罷免問題

 最初の7会議はローマカトリック教会と東方正教会の双方がその権威を認めている世界教会会議で、「総会議」の名称を与えています。

第7回の総会議は「画像崇敬を偶像礼拝に当たらないとして認めたもの」ですが、「一般にプロテスタント教会はこの会議の権威を認めていない」のです。

また、第8回の第四コンスタンチノーポリス会議は、総主教の罷免問題に終始したもので、東方正教会もその権威を認めないため、総会議と呼ばないこととします。

これら7つの会議を東方教会総会議と称したのは、次に論じる、「西方教会公会議」と区別することもさることながら、これらの総会議の主要成果である、「三位一体論」、「キリスト二(両)性一人格論」、「画像崇敬論」が主に東方教会の神学的営みに基礎づけられているからです。

確かに、ローマカトリック教会がそれらを公会議と公認し、また、「カルケドン総会議」を例外として、ローマ教皇特使の臨席もありました。しかし、総会議をローマ教皇が招集し、その決定を認定するものであるとするカトリックの解釈は、歴史的事実と多く整合していません。


㈢ 西方教会公会議
東方教会が最初の7つの総会議の教理的成果をもって教理の発展が完結したと見做すのに対して、西方教会は教理の継続的発展を認めています。


さらに、東ローマ皇帝や、東方教会からの独自路線を進める中で、世界教会会議の招集権、会議における教皇ないしは特使の臨席の必要、決議事項の承認などをカトリック教会は主張するようになりました。

カトリック教会は上述の第4コンスタンティノポリス公会議に続く、以下の13の教会会議を世界教会会議と見なしています。本稿では、「総会議」と区別して「公会議」と称します。
① ラテラノ(1123年)、主要決議事項:叙任権論争解決
② ラテラノ(1139年)、主要決議事項:対立教皇の離教問題
③ ラテラノ(1179年)、主要決議事項:枢機卿による教皇選出法の確立
④ ラテラノ (1215年)主要決議事項: 化体説、年一度の告白と聖体拝受制度、
⑤ リヨン(1245年)、主要決議事項:神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世破門
⑥ リヨン(1274年)、主要決議事項:東方教会との一時的合同、十字軍提唱
⑦ ビエンヌ(1311-1312年)、主要決議事項:テンプル騎士団廃止、神秘思想(誤った)排斥
⑧ コンスタンツ(1414-1418年)、主要決議事項:教会大分裂の解決、フス火刑
⑨ フィレンツェ(1431-1445年)、主要決議事項:教会改革公会議、東方教会との合同問題、教会会議至上主義の敗退
⑩ ラテラノ(1512-1517年)、主要決議事項:教皇至上主義再台頭
⑪ トリエント(1545-1563年)、主要決議事項:対抗宗教改革、
⑫ ヴァチカン(1869-1870年)、主要決議事項:教皇不可謬説
⑬ ヴァチカン(1962-1965年)、主要決議事項:「教会憲章」など16公文書採択

1123年のラテラノ会議から1312年のビエンヌ会議までは中世の教皇至上主義のの台頭する過程で、教皇が古代の総会議におけるローマ皇帝の地位を占めるように会議を主導したものであり、厳密には教会の意思決定機関としての会議でした。


決議事項も教会と神聖ローマ帝国や教会運営上の法規など実践的でした。しかし例外は、第4ラテラノ公会議で、化体説を正式に教義とした公会議でした。上記⑧と⑨の公会議は、教会大分裂時代への対応から台頭した教会会議至上主義の支配した会議でしたが、フィレンツェ公会議はその敗北と、教皇至上主義の勝利を意味します。

⑪から⑬に至る公会議は、今日のカトリック教会の在り方を決定した重要なもので、ルターの宗教改革( 1517年  )に対して対抗宗教改革とその完結と言えます。

㈣ プロテスタント教会会議
ルターの宗教改革に見るように、プロテスタント教会は古代の総会議の伝統は聖書的として受容しましたが、中世のカトリック公会議の伝統全体を否定しました。

これは聖書を信仰と生活上の唯一の規範とする聖書主義が、教会会議を立法機関的に理解する立場となじまなかったからです。プロテスタント諸教会はそれぞれの聖書解釈に基づく教会観から、多様な教会会議形生み出すことになりますが、それらは一般に聖書的信仰と実践をチェックする司法機関的性格が強いものでした。

この点はルター派に属する教会で顕著である。改革派教会 ( 英語:Reformed churches)キリスト教プロテスタント教派のうち、フルドリッヒ・ツヴィングリを指導者とし、スイスのチューリッヒに始まり、ジュネーヴのフランス人ジャン・カルヴァンを中心とした世代に体系づけられたスイス宗教改革の神学と、それに基づく段階的な会議制を特徴とした教会組織を、自覚的に、しかし時には批判的に受け継ぐ教派の総称であり、かつ各個教会の呼称である。)は小会、中会、大会、総会と積み重ねる教会会議主義をとっており、カルヴァンの「キリスト教綱要」の第4篇に詳しい。