キリストは聖書の中心、またいのちです。旧約聖書は一つの民族について記しています。それに対して新約聖書は一人の人について記しています。この世界に、「その人」が来るために神が始め、育てられたのです。私たちが神を心に思い浮かべようとするとき、どんな人格を思い浮かべればよいかを、具体的に決定的に、手で触れることのできる形で、人間に示されたのが「イエス・キリスト」です。イエスが地上に現れたことは、全歴史の中心的な出来事です。旧約聖書はそのために舞台を作り、新約聖書は生きるキリストの活動を描写しています。
人としてのイエスは、かつてない最も美しい生涯を送られました。この世に生を受けた者には見られないほどの「親切」で、「心優しく」、「温和で」、「忍耐深く」、「道場に富んだ」方でした。イエスは人々に愛され、人の悩み苦しみを見過ごされませんでした。イエスは「良く赦され」、喜んで人を「助けられました」。また飢えた人々を養うため、「奇跡」をされました。苦しむものを救うためには、ご自分は「食物をとることすら忘れ」ました。疲れ、重荷を負い、心痛む群衆は、「イエス」のもとにきて、癒しと救いを見出しました。「イエス」がなされた親切なみわざをすべて書物に書きつけるなら、世界もその書物が書かれた文書をおさめきれないであろうといわれました。
その後、イエスは十字架上で死に、「この世の罪を取り除き」、人類の贖罪者、「救い主」となられました。さらに、イエスは死人の中からよみがえり、歴史的な「人物」であったというだけでなく、現実に「生きている人格」として存在されています。「イエス」は今も歴史の最も重要な事実、また現代世界におけるもっとも「肝要な力」なのです。
聖書の全体は、この「キリスト」についてのものがたりと、「キリスト」を受け入れる者に与えられる「永遠のいのちの約束」によって構成されています。聖書が書かれたのはただ人間が「キリスト」を信じ、「理解」し、「知り」、「愛し」、彼に従うようになるためです。いま多くの人たちは、「イエス・キリスト」を過去の人と信じ、天国に住んでいる人と思っています。でもイエスは天国から私たちを見ておられるんです。「キリスト」を信じる者たちは、このような「人格」をうけいれ、生身のイエスを愛し、活動の記録である、福音書から、学ぼうではありませんか。仏教が主流の日本にもそのようなクリスチャンがおりました。賀川豊彦です。彼は、「死線を超えて」というタイトルで本を書きましたが、生涯にわたって社会的弱者の側に立ち、「友愛、互助、平和」を国内外で説きながら、わき目もふらずに活動した稀有の人物です。彼の模範は、「イエス・キリスト」でした。賀川
豊彦は、大正・昭和期のキリスト教社会運動家・社会改良家です。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動、協同組合保険運動において、重要な役割を担った人物です。日本農民組合創設者。「イエス団」創始者です。おそらく、イエスが大正・昭和に生きておられたら、賀川豊彦のような人生を送られたことと思います。イエスは確かに、神であられ、いまも生きておられて、私たちがサタンの手に落ちないように守っていて下さるのですが、聖書の価値は、それだけではありません。もう一度繰り返しますが、聖書が書かれたのは、人間がサタンの手に落ちないで、イエス・キリストという灯台に導かれて、暗闇の中を確実に歩くためです。
人間が「キリスト」を信じ、「理解」し、「知り」、「愛し」、彼に従うようになることが神が望まれることなのです。賀川豊彦は、生活者のために「協同組合」を組織し、貧しい人々が悲惨な生涯を送ることがないようにと願っていました。この「生協」に加入すると、毎月月刊誌が送られてきます。生活クラブ事業連合生活協同組合連合会 編集「生活と自治」編集委員会です。2023年8月1日号は、特集記事に「共に生きる社会への模索」、「人権と対話からの希望」です。特集記事は、伊藤由理子(生活クラブ連合会前会長、同顧問)と安田菜津紀(NPO法人「Dialogue
for People」副代表)のお二人の対談で進められています。大見出しは、「食と農、地に足をつけて考える、暮らしの在り方」で、対談は、①体験が伝える実感、②日本の食と農を見直す、③国内産業をどう支えるか、④人権軽視の先に、中見出し1には「日本社会に広がる、放置できない排除の空気」が置かれています。この中見出しの後で、⑤途上国に学ぶもの、⑥人権なくして国益なし⑦共生のための非戦、人権、があり、中見出し2には
「経済優先がもたらす人権の軽視、どう転換できるのか。」末尾の見出しには、「共生と非戦の社会へ、積み重ねる思い。」が来ています。⑧一人一人に希望を託して、で安田、伊藤両氏の対談は終わっていますが、結論は、まだこの社会には希望はある。です。この見いだしの個所を引用します。安田;負の連鎖が続くような今の社会ですが、2年前には今回と同じ入管法の政府案が廃案になりました。大勢の若者たちが活躍した結果です。「初めてのデモなんです」という大学生や高校生がたくさんいて、気がついたら高校生たちが自ら企画、行動していました。廃案になった時、その高校生が「私にも声があるんだ」と言っていたのがとても印象的でした。彼女たちは、友達やアルバイト先に外国ルーツの人が当たり前にいて、この問題をとても身近に感じています。冷笑がまん延する社会ですが、彼女らの行動に希望を見いだせるように思います。一方、そうした負担を若者に負わせている大人世代の課題も忘れてはいけないと思います。次世代にどうバトンを渡せるか、大人が問われていますね。
伊藤:今は、子供たちが育つ過程で触れ合う大人の数が、昔に比べとても少なくなっています。だから親や周囲の大人がどう生きるかは、子供にとってより重要になっています。大人になると自分の本音を言う場は持ちにくいけれど、あえてそういう場を作って話し合い、社会にどう働きかけていくか見せていく責任もあります。生活クラブは、大人が自分らしく生きられる社会をつくるための場をつくっていきたいと思います。それは子どものためでもあるけれど自分の問題でもある。遠回しかもしれないけれど、今、それが必要ではないかと思います。
安田:作っていきましょう。先日は、静岡地裁で生活保護費の引き下げ取り消しを求めた訴訟で原告が勝訴し、名古屋地裁では同性婚を認めないのは違憲だと明確な判決が出ました。司法が的確に判断したことはうれしい結果です。これをどう社会に組み込んでいくか、まだ課題はありますが、当事者含め、多くの人の努力の積み重ねの結果として、この判決があります。そう思うと、少しずつでも社会は変えられるし、一人一人にできることは大きいと思います。