証 日々神に感謝 森 堯(たかし) 人生には、救い主イエス・キリストに出会うまでに、いろいろな出会いがある。1 聖書との出会い 私が初めて聖書を手にしたのは、終戦後、しばらくたった大学3年の晩秋の頃。
たまたま下宿が一緒であった同級生から文語体の聖書を借用した。 彼は、非常に熱心な、そして温厚なクリスチャンであった。 巷にジングルベルの鳴り響くクリスマスイブに、彼に誘われて「ルーテル教会」の門を初めてくぐった。
聖書を知らない私には宣教師の説教はほとんど理解できなかった。 西欧文化の中でキリスト教が各方面に大きな影響を与えていることは、西洋史で知っていたが、聖書を手にしたのは初めてであった。
数ケ月後、私たちは学校を卒業し、それぞれの就職先に赴任して行った。2 創造主を知る 農林省[林野庁]に就職した私は、地方局の長野に赴任した。
長野は、日本の屋根とも言われる北アルプス、中央アルプスそして南アルプスなど峻厳(しゅんげん)な山々が連綿(れんめん)とそびえ立ち、また目がくらみ、体が吸い込まれそうな深い渓谷の多い地域であった。
その雄大さと素晴らしさは比類のない景観であって、むしろ神々しささえ覚えることがあった。 この景観はどうして出来上がったのか、それのための計り知れない強大なエネルギーはどこから来たのか、その摂理を直ちに理解することはできなかった。しかし、その後勤務先を転々とし多くの自然界の絶景を目の前にして、天地をはじめ万物を創造された方は、唯一の神である創造主以外にはありえないと、信じるに至った。
私は山に向かって目を上げる。 私の助けは、どこからくるのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。 詩篇121:3 主イエス・キリストとの出会い
自然界の素晴らしい創造に気を奪われ、人間が罪人であることを知る由もなかった。1973年、子供たちの高校入試の関係から現在の相模原市に居住するようになった。 1978年ごろ相模大野駅の近くにできた「大野聖書センター」に、私は妻に誘われ年に数回開かれる「特別伝道集会」やクリスマス会などのイベントに参加していた。 そのころ、長老の故プレッソン兄がおられ、機会あるごとに人間の罪、特に原罪について聖書を通して解き明かされた。 人の持って生まれた罪の深さにただ驚くばかりであった。 1988年ごろ、駅近くの「大野聖書センター」が現在の場所に移転してから、私も福音集会に極力参加するよう心がけた。 それには忘れられない故森田兄との出会いがあった。 若いころ受洗された兄弟の敬虔な信仰生活から醸し出される温厚な人柄と誠実さは、兄弟姉妹たちの敬愛の的であった。 特に私とは同じ年代で、戦時中には苦難の中学時代を送り戦争末期にはともに海軍兵学校へ学んだ兄弟でもあった。 年齢的には友人であったが、信仰的には大先輩であった兄弟に「十字架と復活」を通し罪人である自分の存在と慈しみ深い神の愛を教えられ、主イエスを救い主と信じる信仰への歩みは加速していった。そして1997年主のゆるしを得て洗礼を受け新しく生まれ変わり、集会の一員として平安と希望に満ちた信仰生活を送ることができるようになった。人生の老年期に入って信仰をもった私には、ただ神に感謝あるのみである。主に感謝せよ。 主はまことに慈(いつく)しみ深い。 その恵はとこしえまでも 詩篇136:1* ご質問・ご相談がありましたらご連絡下さい。
私は山に向かって目を上げる。 私の助けは、どこからくるのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。 詩篇121:3 主イエス・キリストとの出会い
自然界の素晴らしい創造に気を奪われ、人間が罪人であることを知る由もなかった。1973年、子供たちの高校入試の関係から現在の相模原市に居住するようになった。 1978年ごろ相模大野駅の近くにできた「大野聖書センター」に、私は妻に誘われ年に数回開かれる「特別伝道集会」やクリスマス会などのイベントに参加していた。 そのころ、長老の故プレッソン兄がおられ、機会あるごとに人間の罪、特に原罪について聖書を通して解き明かされた。 人の持って生まれた罪の深さにただ驚くばかりであった。 1988年ごろ、駅近くの「大野聖書センター」が現在の場所に移転してから、私も福音集会に極力参加するよう心がけた。 それには忘れられない故森田兄との出会いがあった。 若いころ受洗された兄弟の敬虔な信仰生活から醸し出される温厚な人柄と誠実さは、兄弟姉妹たちの敬愛の的であった。 特に私とは同じ年代で、戦時中には苦難の中学時代を送り戦争末期にはともに海軍兵学校へ学んだ兄弟でもあった。 年齢的には友人であったが、信仰的には大先輩であった兄弟に「十字架と復活」を通し罪人である自分の存在と慈しみ深い神の愛を教えられ、主イエスを救い主と信じる信仰への歩みは加速していった。そして1997年主のゆるしを得て洗礼を受け新しく生まれ変わり、集会の一員として平安と希望に満ちた信仰生活を送ることができるようになった。人生の老年期に入って信仰をもった私には、ただ神に感謝あるのみである。主に感謝せよ。 主はまことに慈(いつく)しみ深い。 その恵はとこしえまでも 詩篇136:1* ご質問・ご相談がありましたらご連絡下さい。