信仰義認とは

今日は。蝉の声も大きくなり、夕方になると虫の声の大合唱です。

本日は、信仰義認という、新たな発見を引っ提げて、教会の伝統を根底から覆した人物「従順な反逆者」マルティン・ルターについて学びたいと思います。

クリスチャン以外の方からよく指摘されるのは、「あの人はクリスチャンなのに、やっていることは言行不一致だ」ということです。おこないがクリスチャンらしくないとの指摘です。そこで本日は、「人は信仰によってのみ義とされる」という、ルターなど宗教改革の主要な信仰理念:信仰義認についてご紹介します。

 中世キリスト教教会のあり方が、ローマ教会の教皇を頂点とした教会・聖職者の権威が強まり、形式化、儀礼化したことに対して、儀式や寄進、聖職者の華美な生活などの信仰以外の行為を虚飾と考えて、イエス時代の本来の教えに立ち返り、『聖書』のみを拠り所として純粋な信仰のみによって救済を求めるべきであるという主張が起こりました。

イギリスのウィクリフやチェコのフスを先駆者として、16世紀の初め、ドイツのルターが現れ、ローマ教会の贖宥状発売を批判したことをきっかけに宗教改革が始まりましたが、その根幹となる主張が「信仰義認説」です。ルターの拠り所となったのは、新約聖書の次の言葉でした。

神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり、信仰に至らせる。これは「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。『新約聖書』ローマ人への手紙 第1章17

 「義とされる」とは、正しい行い、正義、義務といった意味であるが、キリスト教では神による「救済」に価する行い、ということです。ルターの考えでは、本来、罪深い存在である人が救済されるかどうかは、その人の外的な行為ではなく内的な信仰によると考えました。

その1520年にあらわした主著『キリスト者の自由』では次のように述べています。
「身体がかの司祭や聖職者が着ているような聖衣を着たところで、それがたましいにとって何の飾りにもならないし、また教会や神聖な聖域に詣でたとしても無用であり、神聖な行事にあずかっても役に立たない。身体だけで祈願し断食し巡礼に加わり、更にまた身体をもってまた身体において行われ得るような善行をことごとく完うしたところで、すべて無益である。実にたましいに義をもたらし自由を与えることのできるものは、およそこれとは全く異なるところのものでなければならない。・・・これに反して身体が聖衣ならぬ平服を着用し、神聖ならぬ場所に住み、普通の飲食を取り、巡礼も祈祷をもなさず、上述の偽善者の行う動作を全くなさないとしても、そのことがたましいに何の障害ももたらすこともないのである。<ルター『キリスト者の自由』1955 岩波文庫 p.14-15>

 ルターの信仰を一言で表現すれば「罪人にして同時に義人」であると言えます。カトリックでは罪の段階から神のめぐみによって救いの段階に至ると考えられていますが、ルターは自らの修道院での修業の結果、人間の努力によっては神の義には至れないという確信を持ちました。それまで教会は、魂の救いには、神の恩恵だけでは不十分で、それに加え、人間の善行(良きわざ)が必要であると教えてきました。救いに必要な量の善行が功績として神に受け入れられたその時、罪人に対して怒る義の神は、めぐみ深い愛の神になるというのです。極度の難行苦行により、恐るべき神の尊厳さと罪深い人間の惨めさは明らかにされますが、恵みの神の片鱗すら発見できません。

この迷路の中で「そのような義の神を私は憎んだ」と彼(ルター)は述懐しています。内省的なルターをこの迷路から救ったのは、聖書の学びでした。ルターは、1512年に聖書学で博士号を受け、翌年からは新設間もないヴィッテンベルク大学で詩篇、ロマ書、へブル書、ガラテヤ書を次々と講義しました。この聖書研究が彼を新しい福音理解へと導いたのです。

その核心は「神の義」、しかも「の」の解釈でした。従来カトリック神学は、「神の義」の「の」を主格的に神が持っておられる義、すなわち「神が義であり、それにより罪人を裁く義」と理解しました。しかし、ルターはこの「の」を目的格的に解釈し、「神が不義である罪人を義と認める義」と理解しました。もはや、罪人は善行を積んで義人とならなくてよいのです。そのままの状態で、神の義人の恵みを信仰によって受ければ十分です。

信仰義認の教理に到達したルターはついに、恵み深い神を発見!ルターの改革は、「信仰義認」の確信と同時に始まりました。義人は行いによってではなく、信仰によって生きるのである(ローマの使徒への手紙1-17)。これが「塔での回心」と言われるルターの回心の経験であり「信仰のみ」といわれる意味です。塔でルターは、聖霊の働きで、新たな発見をしたのです。この福音は、私たちがキリストを信じる時、神が私たちを天国に入るにふさわしい者、すなわち、神の目から見て正しい者としてくださることを教えています。それは、初めから終わりまで、信仰によって達成されるのです。「正しい人は信仰によって生きる」(ハバクク2・4)と、聖書に書いてあるとおりです。

(ローマ人への手紙 1:17)For in it the righteousness of God is revealed from faith to faith; as it is written: “But the righteous one will live by faith.”(Romans 1:17)


なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(新改訳)


福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(新共同訳)


というのは、神の救いはその福音の中に示されていて、人を信仰からさらに信仰へと導いて行くのである。それは、旧約聖書のハバクク書に、「救われる人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりである。
(現代訳)

この罪深い者が、行いによって救われるのはどんなに難しいことか。良いと思うことがなかなかできず、罪深い思いにとらわれてしまうことがしばしばです。自分の尺度に合わない人に煮え返るような怒りを覚え、ののしってしまいます。しかし、主は信仰による救いを与えてくださいました。


その恵みにただ感謝するばかりです。こんなに罪深い者であっても、信仰によって天国に入れていただけるのです。信仰へと導かれた私たちはなんと幸いなのでしょう。

私たちが信仰を持つことができたのも、ただ神様の恵みによります。私たちを救ってくださった主に心からの感謝をささげ、賛美します。功績の安売りに他ならない免罪符に抗議した「九十五カ条提題」怒る神をなだめるミサ、聖人崇拝、修道院制度などへの攻撃はついに、功績の上に建てられたカトリック教会そのものの否定へとルターを導きました。ゴシックの大聖堂のごとき中世カトリシズムは、その根底から大きく揺らいだのです。

1521年、ルターはカトリック教会から破門され、神聖ローマ帝国からも異端と断定されました。教会からは神の救いより除かれ、俗権からは法律の保護外に置かれたわけです。しかし、ローマの搾取に対するドイツの国民感情やザクセンの選帝侯フリードリヒなどの援助によってルターの改革は、聖書のドイツ語訳、修道院の廃止と進展し、そしてルター派教会を形成していったのでした。

(了)