ルターと親鸞

本日は、「中央公論」に掲載された「宗教が分断する世界(自分だけの納得を求めて)」という題の記事をご紹介します。お二人の対談を通して重要な事が語られています。五木寛之さんと森本あんり、さんのご紹介は、この記事の最後に掲載します。五木さんは主に浄土宗

または浄土真宗の知識を、森本さんはキリスト教の知識をもとに対談されています。興味深いのは、ルターと親鸞が国や時代そして主教は全く違うのですが、よくよく眺めてみるとこの二人にある共通点です。「自分の生に関し、悩み煩悶しつつも己の道を開いてゆくお二人に、エールを送りたいと思います。

中央公論 2019.1 宗教が分断する世界(自分だけの納得を求めて)正当なき異端の時代に 
五木寛之 x 森本あんり


五木:森本さんの「異端の時代」と「反知性主義」を読ませていただいて、知的興奮というとおおげさだけれども、最近、こんなに興奮した本はなかったですね。机の前にじっと座って読んでいるのではなく、立ち上がったり歩き回ったりする、そんな身体の反応が出てくるような本でしたね。ちょうど「反知性主義」に出てくる(十九世紀終わりから二十世紀にかけて全米で活動した)福音伝道者ビリー・サンデーのような感じで。(笑)
森本:それは嬉しいですね。
五木:たしかある神学者が、自分の蔵書を声を出さずに読んでいる人がいたと驚愕したエピソードがありましたよね。
森本:それはローマ帝国末期のミラノ司教アンプロジウスの話です。あるとき、(「告白」「神の国」などを著した神学者の)アウグスティヌスが師であるアンプロジウスの部屋に行ったら、アンプロジウスはじっと黙っていたと。
五木:ええ。
森本:「先生、何をしているのですか」と聞いたら、「読んでいるんだよ」といわれたので、「どうして声を出さずに読めるんですか」とアウグスティヌスはびっくりした。その頃は―四世紀くらいですから、黙読という習慣がなかったのです。
五木:仏陀のお弟子さんたちの中の修行者たちのことを、声聞(しょうもん)と言います。浄土真宗のほうは、「門徒もの知らず」といわれるくらいで、あまり本は読まない。聞法(もんぽう)というんです。真理を声で聞く。
森本:聞くことは本当に大切だと思いますね。
五木:徹底的に聞くんですね。真宗の中興の祖と言われる蓮如が―この人は毀誉褒貶の多い人で悪口をよくいわれるんですけれど―面白いことを言っていま、す。「百遍聞いて、もう暗記しているようなお坊さんの説教であっても、生まれて初めて聞くような感動で聞かなきゃいかんぞ」と。ああ、なるほど、真宗ってこれだな、と思いました。
森本:実は『聖書』にも、「信仰は聞くことによる」と書いてあるんです。
五木:昔はそうだったんですね。
森本:つまり、本は一人で読めるでしょう。聞くというのは誰かがしゃべっていることを聞く。ですから、人と人との間の話なんですよ。人を通して信仰が与えられるという……。
五木:ですから、ぼくはレクチャーが本になって古典になっているものをもっぱら読んできました。
森本:僕は大学に籍を置いていますが、最近、大学でそんなふうに書き起こす価値のある講義は行われているのだろうか、と。昔の講義は、ドイツの大学などでそうでしたけれど、しゃべったことがそのまま本になるような内容の深いものが多かった。いまそんな講義をしたら、学生からは文句が出ます。長たらしい講義じゃなくて学生参加の対話型にしてくれって。
五木:明治期の日本の近代哲学を見ても、清沢満之(まんし)の『宗教哲学骸骨』という代表的な本がありますね。これももとは大谷大学の講義が土台になっています。
森本:ああ、やっぱり講義ですか。
五木:仏教も講話と問答ですから。キリスト教も信仰があったあとに『聖書』ができあがるんでしょう?
森本:そのとおりです。『聖書』より先に信仰があるのです。私の本をよくお読みいただいて恐縮です。
トランプ現象を予知?
五木:ドナルド・トランプの登場以降、急激に反知性主義が話題になっていますが、森本さんの『反知性主義』は、トランプ現象より前に出版されたものですよね。そこで予知をされたように、いま、新しい流れが出てきた。そして皆がある種の不安と反発を抱きながら成り行きを注視している。
森本:そうですね。
五木:しかし、それがゴシップ的な話題にしかなっていない。ですから、この辺りでもう一遍、「知性主義」とは何か、「反・知性主義」とは何かということを、きちんと議論する必要があるな、と最近つくづく思うようになりました。
森本:五木さんはいま、「反・知性主義」と区切られたでしょう。それで私の本をよく読んでいただいているな、とありがたく思いました。普通は、「反知性」で切ってしまって、知性に反対する主義だろう、知性がないことだろうといわれるのですけれど、五木さんのおっしゃるとおりで、「反知性主義」は、「知性主義」に対する反発なのです。まず知性主義があって、それをやっつけたいという気持ち。だから、「おまえは知性がないじゃないか」という意味とは違うのです。
五木:知性の特権化とか知のエスタブリッシュメントとか、もっと進んでいえば、政財界と癒着した知の現状に対する反発が、底流に根強くあるんでしょうね。同時に、たとえば、ゴータマ・ブッダが当時のバラモン教のなかで反逆児として出てくる。あれも、現状に対する反・知性主義の一つの申し立てかもしれませんね。
森本:そうです。お釈迦様もイエスも、当時の権威の否定から出発しているんですね。「学者パリサイ人」というのは、当時の学問とユダヤ宗教の権威でしたから。
五木:ちょうど平安の中期から鎌倉の初めにかけての時代、日本が沸騰していた時代がまさにそうですね。当時、知性を代表したのは比叡山と高野山だったと思います。比叡山が東京大学で高野山が京都大学みたいな感じだったのですが、あのなかで出てきた人たち、法然、道元、親鸞、栄西、日蓮は全員比叡山に学んで中退した(笑)人たちだった。
森本:そうですね。
五木:つまり比叡山の徹底した知性主義にぶつかってそこで下山する。その中退生のなかから、いわゆる鎌倉新仏教が生まれてくるわけですから。鎌倉仏教の出発点は”仏教的反・知性主義”。
森本:マルティン・ルターも全く同じです。長いこと修業僧で親鸞(浄土真宗の開祖)のようにいわゆる自力救済をずっと求めていた。彼はドクターですから、あの時の知性の頂点まで行って、それに反発している。同じですよね。
五木:そうです。浄土宗の開祖、法然なんかは、”知恵第一の法然坊”と呼ばれた比叡山きっての秀才ですから。それでも山を下りて人びとと問答を始めるんですから。
森本:こんな、面白い話があります。ローマ・カトリックの宣教師たちが日本にやってきて、浄土真宗の話を聞きつけ、バチカンに手紙を書くのです。「日本はキリスト教を知らない国だと思っていたら、実はルター派の異端がはびこっている」と。「念仏のみで救われる」というのは、ルターの「信仰義認」と同じだから、こんな遠くにまであの異端が忍び込んでいて、まことにけしからん、という話なのです。
五木:真宗では「弥陀一仏」というのですが、それは選択的な一神教ですね。あれだけ頑固な合理主義者の親鸞でも、頭から諸仏諸神を無視してはいません。
森本:ルターにも「二王国説」があります。神の国と、この世の国では違う論理が働く。それをごっちゃにすると「熱狂主義」になってしまうんです。
五木:トランプさんはどうですか。
森本:いや、あの人には、神の国の論理なんてありません。全部この世の論理です。
五木:でも、彼を支持しているのもクリスチャンですよね。
森本:福音派のクリスチャンが多いですね。そこがほんとに不思議なんですよ。あれほどキリスト教の道徳とかけ離れた人に、白人福音派の八割が賛成しているんですから。アメリカ的なキリスト教は、あまりにアメリカ化しすぎて、自己批判の力を失ってしまいました。宗教ってその土地に根付くと「土着化」して変質してしまうんです。
五木:なるほど。僕は「土着化」より「馴化(じゅんか)」という言葉を使いたいですね。ひと頃は北米原産の「セイタカアワダチソウ」が日本のススキを駆逐して日本全国を席巻したといわれていました。それが、最近ではススキと共生するようになって、背もあんまり高くなくなってきた。これを生物学では「馴化」とかいうそうですね。自分がススキをやっつけて駆逐したらこの国にはいられないと悟ったんでしょう。トランプにそういう知恵はあるんでしょうか。(笑)
森本:いやあ、あの人はひたすら「アメリカ第一」ですからね・・・・・。(笑)でも、その筋の専門家に聞くと、彼は100パーセント再選されるだろうといっています。彼も最初は、ブームに乗った典型的な反知性主義の人物でした。
五木:誤解されやすいかもしれませんが、森本さんは、正しい「反知性主義」はちゃんと認めていらっしゃるんですよね。反知性主義は、もともとは知の独占や、エスタブリシュメントの知性腐敗に対する反発から生まれてくるものだから。
森本:そのとおりです。
五木:そういう反発が大きく正統的に伸びていくことが大事なのであって、反知性主義がダメなのではない。いまは反知性主義というのは、無学な連中がインテリに反発しているみたいに捉えられているけれどそれは違うんじゃないか、と。
森本:はい。トランプさんの問題は、反知性主義の波に乗って権力の頂点まで上り詰めてしまった彼が、今度はその反発の力をどこへ向けようとしているのか、ということだと思います。
五木:なるほど。
(略)
浄土真宗とキリスト教
五木:真宗は日本の仏教界では門徒の数が多いけれど、やはり異端だと思いますがどうでしょうか。
森本:親鸞はある意味学問的に超一流で、世界中に影響力があって、弟子の唯円が師の言葉をまとめた『歎異抄』もあるわけですけれど、蓮如のほうは、もう少しローカルというか、それぞれの土地で人びとの間に飛び込んで親しみやすい話をしていくタイプですね。
五木:(親鸞の師である)法然が出てきたときには、すでにいわゆる南都北稜がほとんどの分野を押さえてしまっていますから、彼はもっとも下層の民衆のなかに入っていくしかないんです。ですから、最初は近江の琵琶湖当たりの漁民とか船乗り、また殺傷に携わる人だとか、処刑人だとか、キリストが連れて歩いていたような人たちも多く念仏の共鳴者となりました。
森本:なるほど。ほんとにイエスの最初の弟子たちと同じですね。
五木:さきほども触れましたが、真宗は外部の人たちに「門徒もの知らず」といわれました。ただ念仏さえすればいい、法然のいう「知愚」になれ、と。赤子のように愚かになれ。知識は全部捨てろと。大秀才といわれた法然が、「とにかくあらゆる書を捨てよ」といっているところが凄い。
森本:イエスも、幼子のようにならなければ神の国にはいることはできない」といっています。反知性主義の本を書いたあと、「では、日本にはどんな『反知性主義』の人がいるのか」とよく聞かれるようになったのですが、私は、鎌倉仏教の人たちの名前を挙げます。
五木:たしかにね。親鸞はそのことで苦闘します。ものすごくたくさんの経を読んで暗記している自分を責める。風邪をひいて寝込んでいるときに、頭の中に無量寿経が見えてきて、気が付かないうちにそれを声に出して読んでいた。そういう自分はダメだ、まだ自分は知識を捨てきっていない、と。
比叡山とか高野山とかそういうところが独占している知の特権に対して、知のチャンピオンみたいな法然が、もう愚かになれ、というのですから。念仏一つで必ずお迎えが来る。これを来迎引接(らいごういんじょう)というのですが。
森本:それはやはり知の頂点も自力の修行も徹底的に極めた人だからこそ、たどり着ける悟りなのでしょうね。
孤立する現代人は、これから一層宗教に救いを求めていくようになるのではないでしょうか。
森本:さあどうかな。実は宗教って誰でも持っているものなんです。自分の世界を価値付けする解釈体系ですから。OO教、XX経、という名前はつかないけど、人間誰しも大事なものはあって、ただ金とか名誉だけでは測れない何かが必ずあるんですよ。
五木:たしかに。
森本:それで、真宗とかプロテスタントという特定の宗教の形に乗っかれると思う人は乗っかるのです。でも、そんなものに乗っかる必要がないと思えば、別のやり方で表現すればいいだけで。
五木:そうですね。
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次のみ言葉を見てください。
「念仏には無義をもって義とす。
歎異抄の言葉です。
 私たちは、自分の思うとおりにならなかったり、大きな失敗をすると「こんな人生に意味があるのか」とか「こんなつまらない自分に価値があるのか」と悩んでしまいます。この疑問は、人生や自分自身に対する根本的な疑問ですが、まじめに考えれば考えるほど答えのでない問いでもあります。この疑問には出口はないのでしょうか。
 表題に掲げた文章の「義」とは、意義とか意味ということですから、「念仏においては意味づけを超えているということが本当の意味である」ということを表しています。では、意味づけを超えているとはどのようなことを言うのでしょうか。
  親鸞は「義」を「はからい」と訓読しています。「はからい」とは、思い計ることですから、自分の人生の意味を考え、価値を計ることであると言っていいと思います。このような「はからい」は、一体どこからやってくるのでしょうか。生まれたばかりの赤子や幼い子どもが「人生の意味を問う」ということはありません。大人になって言葉による知識を多く持つようになった人が意味や価値を問題にするのでしょう。したがって「はからい」は、いわゆる大人の問題ということになりますが、だからといって知識を捨てればよいとか、赤子にもどればよい、ということでは解決できません。なぜなら、そんなことは本来できないことだからです。ここに、視点を180度変えなければならない必然性があります。
 もともと、私たち自身や人生そのものは言葉を知る以前から既に成り立っています。だから、私たち自身や人生そのものは意味や価値を問うことよりもずっと深く大きいものなのです。それゆえ「はからい」によっては本来捉えきれないものが、私たち自身や人生そのものなのです。このような「はからい」を超えるようにと呼びかけているのが親鸞の言う「念仏」なのです。
 『夜と霧』という著作で有名なフランクルというユダヤ人の精神科医がいました。彼は、ナチスによって強制収容所に入れられてしまいました。仲間がどんどん殺されていく極限状況の中で、大発見したのです。それは、自分が人生に対して意味を問うのではなしに、人生から自分が問われているのだということでした。この事を発見して、苦しい状況を生き延びたのです。後に彼はこの発見を「問いの観点の変更」と言っていますが、親鸞の教えと重なっているように思います。
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「人生から自分が問われているのだということ」は大発見でした。

 

対談者紹介:
①五木寛之(いつきひろゆき)
作家、1932年福岡県生まれ、生後間もなく朝鮮に渡り、敗戦後、平城より引き揚げ。57年早稲田大学ロシア文学科中退後、PR誌編集者、作詞家、ルポライターを経て、66年「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞受賞。「青ざめた馬を見よ」(直木賞)、「青春の門 筑豊編」など著書多数。
②森本あんり(もりもとあんり)
国際基督教大学学務副学長、1956年神奈川県生まれ。国際基督教大学(ICU)人文科学科卒業。東京神学大学大学院を経て、プリンストン神学大学院博士課程修了。Ph.D.国際基督教大学牧師等を経て同大学人文科学科教授。2012年より現職。「反知性主義」、「異端の時代」など著書多数。