ヘレンケラーとサリバン先生

今回のお話は3つの短い部分からなります。一つ目は聖書のお話、二つ目はトルストイの「靴屋のマルチン」のお話、3つ目は、ヘレン・ケラーとサリバン先生のお話です。
まず聖書からのみ言葉は、第一コリント1章26節から31節までです。
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 27ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 28また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。 29それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 30神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。 31「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
ここで大切なのは、「知恵」、「義」、「聖」、「あがない」という4つの言葉です。G.C.モルガンの書いた、「新約聖書註解」から関連個所を引用してみます。
「あなた方がキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは『誇るものは主を誇れ』と書いてあるとおりである」。
パウロはここでキリストはわれわれにとって、「知恵」「義」「聖」「あがない」の4つであるといっています。つまり、神の知恵はキリスト・イエスにあってわれわれのものであるということです。すべての知恵がキリストの中にある。キリストの言葉のなかにある。パウロは知恵を分析して「義、聖、あがない」の三つの言葉とします。キリストはわれわれにとって、義である、そしてこれこそ実に、すべての知恵のもといなのです。パウロは最後にあがないをもってきます。「あがない」は、ここでは、すべての束縛から究極的に脱してしまうことを意味する。観念的なものではなく、身体的なものです。その結実は<現在の「卑しいからだ」が、キリストの「栄光のからだと同じかたちに」変えられることです。>すなわち、すべての束縛から究極的に脱出できるという確実性、われわれの救いの意味に完全に究極的に没入してしまうことです。
さて話をヘレン・ケラーに変えましょう。彼女の伝記を読まれたことがありますか。
ヘレン・ケラー( 1880~1968)は1880年に生まれ、1968年に亡くなりました。彼女は、小さいころの病気で耳と目が不自由になり、サリバン先生との出会いによって生きる希望を見つけ大学まで進み、社会福祉活動に一生をささげたことで知られています。サリバン先生は、アン・サリバン(Anne Mansfield Sullivan Macy、1866~1936)といい、アンは愛称のアニーと呼ばれることが多く、以下はアニー・サリバンと記します。アニーが9歳の時に母親は死に、アルコール中毒の父親が娘を養育できなかったため、マサチューセッツ州テュークスベリーの州立孤児院に引き取られ、そこで5年間を過ごしました。アニーは5歳の時にかかったトラコーマのためほとんど目が見えず、教育を受ける機会を逸していました。たまたま孤児院を視察に来た州の慈善事業委員長に「学校に行きたい」と強く訴えたのが功を奏し、14歳でパーキンス盲学校に受け入れられます。そこで目の手術を受けて、かなり視力を取り戻し、1886年に首席で卒業するほどになりました。アニーは盲人の抱える問題を熟知していましたが、教員の資格はなく、単にヘレンの世話係として雇われたのでした。1887年にアニーがヘレンの家に到着した時、教育の歴史、いや人間精神の歴史における新しい一章が始まったのです。
ヘレンは1968年、88歳の誕生日(6月27日)を目前に逝去し、亡骸は首都ワシントンのワシントン大聖堂の地下に安置されています。そこには点字が刻印されたプレートがあり、女史が永眠していることを示しています。わたしがヘレンの伝記を読み終えた際の感想は、「神の愛」の素晴らしさでした。
皆さんはトルストイの「靴屋のマルチン」の話をご存じでしょうか。片田舎のちいさな靴屋にマルチンという男がいました。ある日、夢の中で、イエス様がお前に会いに行くと語られるお話です。マルチンはその日その時を楽しみに待ちましたが、いっこうにイエス様は現れません。でもマルチンは、見ず知らずの人たちに対して3つの良いことをしました。一つ目は道の雪をとるお仕事をしている人がとても疲れたようすでしゃがみ込んでいるのを見た時です。マルチンは、その男の人を部屋の中にいれてあげて暖かいお茶を飲ませてあげました。男の人はとても喜んで帰っていきました。もう一つは、赤ちゃんを抱いた女の人が寒さに震えながら立っているのを見た時、最後の一つは、ひとりの男の子がおばさんからひどく叱られているのを見た時です。男の子はお店から黙ってリンゴを盗んでしまったのです。それを見たマルチンは急いで外に出ると、「ぼうや、私がかわりにリンゴのお金を払ってあげよう。でもこれからは人の物を盗んではいけないよ」。神様はマルチンの前には現れませんでした。マルチンは尋ねます。「神様、今日は三人の人のために私は出来る限りの事をしてあげたら、みんなとても喜んでくれて、私も嬉しくなりました。でも神様、今日はどうしておいでにならなかったのですか。私はとても楽しみにしていましたのに・・・」

ヘレン・ケラーの物語を読んだとき、私の脳裏にこの靴屋のマルチンの話が浮かんできました。ヘレン・ケラーというよりも、彼女を育てた「アン・サリバン」という人物です。アン・サリバンがいなかったら、おそらくヘレン・ケラーはこの世に偉大な足跡を残せなかったでしょう。アンは、ヘレンの家に来てから、なくなるまで、49年間、目が見えず、耳も聞こえず、口もきけないヘレンの助けとなり、ヘレンが文字を覚え、本を読み、文章を書くことができるまでに支援していきます。彼女は忍耐強く、賢く、いつもヘレンのそばにいてヘレンの成長を見守ります。パラリンピックの一競技種目にブラインドマラソンがあります。視覚障がい者のマラソンです。伴走者は障がい者ランナーと一緒に走り、視覚障がい者の目となり方向を伝えたり、障がい物を避けたりする役割があります。初めて伴走をする方は視覚障がい者ランナーに何を伝えたら良いのか、何をしてあげたら良いかが解らないそうです。
アンは、幼少期視力がなかった経験があり、障碍者(ヘレン)の気持ちを理解することができたのです。なんとアンはクリスチャンでした。彼女は施設にとどまり、自分が愛されたように自分も施設にいる人を愛して生きることを決心したのです。この愛の連鎖がヘレン・ケラーの奇跡につながったのです。神様の愛、真実な愛、その力の偉大さを感じずにはいられません。アンは亡くなる直前には、「神さま、私が死んでしまった後も、どうかヘレンが私なしでも生きていけますように」と祈りました。私達も隣にいる隣人に愛を与え続ける生を生きようではありませんか。その愛の連鎖がきっとこの世界を神の国に変化させる奇跡となると信じて。