証 信仰と聖書
萩原 正子
私と信仰
「あなたが私を選んだのではなく、私があなたを選んだのです。」これは聖書のみことばです。
あなたというのは私、つまり神を信じている私自身のことです。信仰を持ち29年が経過していますが、このみことばは今私自身に生きて語りかけています。
私がキリストを信じたときのみことばは「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5章17節)です。
「新しく造られる。」「すべてが新しくなる。」当時の私はこのみことばを通して救世主キリストが「業(わざ)」を私自身に示してくださったという思いと、その神の「業」を信じ私自身が自主的に神に近づいたという思いがありました。
しかし弱い信仰でありながら今までクリスチャンとして保たれ、また信仰が守られてきたのは私自身が選択してきたのではなく、神が私を選び責任をもって導いてくださった結果にほかならないと確信しています。
私と聖書
聖書は重く(重量的に)文字も小さくてまた66の書で構成されています。かつ66書のなかは各章に分かれなおその章は1節2節とナンバーリングしてあります。この節ごとのナンバーリングが私に聖書を非常に読みにくいものと感じさせていました。また読むときに節ごとのみことばばかりに注目してしまい、その章あるいは前後の章の流れを通して神が私に言わんとしていることが明確に示されていることを自覚しないまま聖書を読んでいました。
しかし創世記の4章を読んだとき、カインとアベルの神へのささげもの、神の選びの結果から人類最初の殺人にいたる流れは、私の神への信仰のいい加減さを知る機会となりました。神から私への語りかけは、神へのささげものは最良でなければならないということでした。つまり私のささげものは私自身でありそれも最良でなければ神は満足しないということです。最良の自分自身を神にささげるとはどういうことを意味するのでしょうか。日々起こるさまざまな事柄に対し、神への信仰の証として信仰にもとづいた最良の選択ができること、そしてそれを計画どおりに達成することではないかと考えます。
信仰を持ち続けるということ私たちクリスチャンは神を信じています。
神を信じるということはどのようになることでしょうか。
神の存在を確信することです。信仰をもった後でも人間は弱いのでその確信が揺らぎます。特につらいことや困難に遭うと神などこの世にいないのでは、と自分の確信への疑いが出てきます。私自身はこのような揺らぎの繰り返しだったといえます。では信仰を持ち続けるためにはどのようにしたらよいのでしょうか。
聖書のローマ人への手紙の中にその秘訣が書かれています。
「信仰によって義と認められた私たちは私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
・・・そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(5章1-4節)。
日々の仕事を含めた生活の中で嫌なことや困難な状況に遭いつらい思いをもつことは多くあります。
そんな時に「何故自分だけ?」「なぜこんなことになるの?」と自問自答します。しかしこのみことばはつらいことや困難なことはそれだけで終わらないと私に教えているのです。患難を乗り越えることで忍耐することを知り、忍耐が備わることで品性が練り上げられそれが希望につながるというのです。
なんということでしょうか。自分自身が困難なことやつらいことを忍耐をもって前向きに取り組むことで、私の品性を高めてくれるというのです。だからといって困難なことに遭いたいとは思いませんが。みことばがこのように示している通りに、困難な状況はむだではないこと、このつらさが希望につながっていることを毎日そのつど確信することで信仰を持ち続けられるでしょう。