社会的福音について

社会的福音(しゃかいてきふくいん)

皆さん今日は。本日は社会的福音について考えてみましょう。社会的福音とは、社会的な救いをもたらす福音という意味です。

社会的福音を次のように説明しています。

旧約のイスラエルの民、原始教会、その後の教会史を通して、キリスト教は弱者を顧み、施しその他の援助を一貫して強調してきました。

特に、ウィルバフォース、シャーフツベリーに代表される19世紀イギリス福音派は、社会のあらゆる面での不正・不義に教会的にのみか政治的にも取り組みました。K.ヒーズマンの『活動する福音主義者たち』(1962)はそうした福音派諸活動の目的の多様性を強調しつつ、無数の任意団体が形成されていった次第を詳述しています。この運動の背後にある思想を「社会的福音」と呼ぶ習わしは、ヨーロッパでもアメリカでも1880年代以降のことです。例えば、B.F.ウェスコットはウェストミンスター寺院の説教で1886年に、また、J.クリフォードはその2年後バプテスト同盟年会の議長講演で、この語を使用しました。米国では、1886年に最初の用例が記録されましたが、1898年アメリカのジョージア州で『ザ・ソシアル・ゴスペル』という雑誌が出るまでは、アメリカの社会的キリスト教運動を意味するものにはなりませんでした。とにかく、1880年代から90年代を通して、ウェスコットはキリスト教社会主義に立ち、クリフォードも『共産党宣言』から表現を借用するなどしていたが、彼らと福音派の間で社会的姿勢に大差はなく、そのことはナザレン派の学者T.L.スミスの『リバイバル運動と社会改革』(1957,1980)が、英国と米国の諸活動の並行関係を丁寧に指摘しているところからも明らかである。福音派、特に非国教徒の圧倒的影響と指向性は、20世紀になっても変わりません。F.B.マイヤーやG.キャンベル.モーガンなどが1920年ごろまでは選挙のたびに「社会的福音」を叫んだのも、よく知られています。米国でもリバイバル運動は後期根本主義のみか、社会的福音および世界学生運動の苗床でもありました。1886年から1898年まで米国福音同盟の総主事をしたジョウサイア.ストロングも進化論的進歩の支持者であり、社会的福音の鼓吹者でした。D.L.ムーディも社会的福音の指導者W.H.P.ファウンスと講壇を共にし、J.R.モットを支援し、モットをその聖書学校長へと招いたこともありました。この後、突然、いわゆる「大逆転」が起こります。大逆転とは、前述した、ナザレン派の学者T.L.スミスのことばを、アメリカの一社会学者がThe Great Reversal(1973)という書名にして以来、神学会で一般化した福音派の社会的無関心への地滑り的変貌をさす用語です。

この原因は、いうまでもなく、1890年ごろから英米に導入された自由主義神学で、1920年を境にして社会的福音を説くものは実質上すべて自由主義を奉じるに至りました。そして今日まで、「社会的福音」は、こういう意味を包摂する語とされています。社会的福音が米国において自由主義と結びついたのには以下のような社会的背景があります。

つまり、19世紀末に、1861年に勃発した南北戦争の傷がようやく癒されると、遅まきながら米国にも都市化と工業化の現象が出現しました。それが移民の増加と手を携えて、教会に大いなる挑戦となったのです。社会的福音はこの新しい潮流に、新しい信仰で応え、なおかつ、「キリスト教化されたアメリカ」という”古い夢”の実現を図ったものだったのである。この夢の実現を担った旗手は、ウォールター・ラウシェンブシュ(1861-1918)でした。彼は地獄の台所と呼ばれたニューヨークの貧しい人々の住む地区の近くの教会で1886年から11年間牧会した後、ロチェスター神学校で教えることになった。そして、1907年に『キリスト教と社会的危機』を出版、社会的福音の指導者となりました。この本の評判は、ほかの誰よりも本人を驚かせたといいます。その本は、当時の教会の社会的関心の高さを裏書きしてもいるが、まず、極めて誠実で、人々をして彼を尊敬せざるを得なくさせる著者の人柄を色濃く映し出していたからです。この本はまた、著者が知的自由主義に批判的であることを明らかにしていました。彼は「宗教における力は、ただ人々を新しく神にとらえていただくという偉大な基本的願望によってくる」として、この観点から当時の経済問題を取り上げたのです。いくつか具体的に彼のした指摘に注目しておこう。その一つは、競争社会の危険性である。人びとは「必死になって争う」法則のとりこになる時、友愛を否定し、利己心や貪欲を野放しにする。これはキリスト教社会秩序の基本を裏切り、人を本能を中心とする低次元なエートスに逆戻りさせる。第2に、彼は、大企業の独裁的性格に「専制政治の最後のとりで」を見、産業民主主義の不在を嘆く。都市化と工業化の中で多くの人は生産手段を失い、社会で従属的地位に立たされる。これはいわゆるアメリカン・ドリームの裏の現実であった。第3に、彼は、利己心と結果だけを求める功利的な貪欲が、食品などの品質低下、偽りの広告、不道徳な消費生活を招く現実を直視した。利潤の追求だけに専念するのは、文化の堕落に他ならない。第4に、利潤追求の危険も見逃せない。「キリスト教が決して主張しない拝金主義」を生み出すからである。公共の精神を崩壊させる資本主義の矛盾が、こうして明らかになる。

このような現実に対応し得るものとして、ウォールター・ラウシェンブシュが説いたのは、ドイツの自由主義神学者A.B.リッチェルの神の国論であった。この限り彼の社会的福音はリベラルと断じ得るが、R.C ホワイトとC.H.ホプキンズがその共同研究『社会的福音』(1976)で言うように、神学的にそうであってもその装いの下には彼が同志のバプテスト派牧師とともに1892-93年来抱き続けてきた「御国の同胞性」があるとなると、ことは複雑化する。確かにその後のラウシェンブシュの神の国は二ーバーにより「神の国から出発する、あるいはそれを非常に強調する社会思想は、不可避的にユートピア主義に帰着する」とされ、D.ボーンへファーにより、「神学を馬鹿にすることは許されない。・・・・・聖書に対する服従が足りない」と言われた。

  しかし、1970年代以降の新「社会的福音」を標榜する福音派の、例えば1973年の福音派の社会的関心をめぐるシカゴ宣言とラウシェンブシュの神の国論の比較をすれば、両者の関係は無視し得ないものがある。また、いわゆる社会的福音の最後の旗手と目されるJ.C.ベネットも、今日のラディカルな福音派の理解に照らすとかつての自由主義神学の社会的福音は<おとなしく>見えるということを認めている。

社会的福音はこのようにみてくると、どのような神学的、社会的立場から言っても、多くの人が嘆くように、19世紀末から20世紀にかけて北米の工業化された都市に起こったキリスト教運動という以外には、正確な定義が不可能な一つの神学的概念であると認めざるを得ない。欧州大陸や英国のキリスト教社会主義とは明らかに一線を画し、伝統的キリスト教の社会的関心を反映させたいわゆるante bellum社会的キリスト教およびニーバーらに代表される社会的活動から区別され、最近の福音派の考えにより近いものとして、社会的福音は今後、より精密な研究対象となるだろう。
(了)
新キリスト教辞典 有賀 寿 執筆