信仰のない者には平和はありません


聖書には私たちの平安は信仰があるからですという個所があります。

聖書を開いてみましょう。旧約聖書のイザヤ書です。

イザヤ書53章4~6節

4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

 

イザヤがここで「彼」と言っているのは、「イエス・キリスト」のことです。
イエスの死は身代わりの死です。それは、私たちに平安と癒しをもたらします。

6節に「主」は「主のしもべ」に「すべての咎を負わせた」とあります。ここですべての出来事の仕掛け人が「主」であることが明らかにされます。「主のしもべ」が自ら積極的に苦難を負うことも、また受難も、その背後に主のご計画があります。「主は、・・すべての咎を彼に負わせた」のです。
この「負わせる」という動詞は、本来は「会う、出会う、とりなしをする、着く、達する」という意味です。神のもとからさまよい出た者を、再び、神と出会わせるために、だれかがとりなし的な働きをすることを意味します。いみじくも、この言葉は53章12節の最後に「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」という訳で使われています。「罪を負う」の「負う」も「赦す」という意味。つまり、人間の犯した罪を負うことで、その罪が赦されるために、とりなしをする「主のしもべ」に焦点が当てられているのです。
主はその働きをご自分のしもべに「負わせた」ということになります。しもべの側からすれば「負わせられた」ということになりますが、負わせる側もその務めには多大な苦難を伴うことを知った上で「負わせた」のです。主と「主のしもべ」のかかわりが愛と信頼で結ばれていなければこのことはできません。

(1) 「平安」(シャーローム)

しもべによる身代わりの苦難と死がもたらすのは、「平安」です。「平安」の語は神が人に与える祝福の総称です。神と人との間にある障害を取り除いた結果としてもたらされるものです。主との和解による結果としての祝福のすべてがこの一語(単数形)で言い表わされています。

(2) 「いやし」

しもべによる身代わりの苦難と死がもたらすのは、「いやし」です。罪が病であるならば、罪から解放されることは「いやし」になります。この言葉が聖書で最初に使われているのは創世記20章17節ですが、そこでは、アブラハムが神に祈った(とりなした)ことで、「神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった」とあります。「とりなし」と「いやし」が結びつけられています。

新約聖書の以下の個所はみなこのイザヤ書と関連しています。

ヨハネの福音書10章17~18節
17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

Ⅰペテロの手紙2章22~24節
22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

共観福音書の「マタイ」、「マルコ」、「ルカ」はイエスの受難について、説明しています。


●マタイの福音書16章21節
その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

●マルコの福音書8章31節
それから人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに、捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

●ルカの福音書9章22節
「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」