トルストイの名作・復活

復活 (小説)
『復活』は、レフ・トルストイ( 1828-1910 )の晩年の長編小説。この小説は、彼の代表作の一つに数えられる。1899年、雑誌への連載で発表。若い貴族とかつて恋人だった女の、贖罪と魂の救済を描き、それを通じて社会の偽善を告発する。

略歴・概要
19世紀ロシア文学を代表する巨匠。ヤースナヤ・ポリャーナに地主貴族の四男として育つ。ルソーを耽読し大学育事業に情熱を注ぎ、1862年の幸福な結婚を機に「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」を次々に完成。
後、転機を迎え、「神と人類に奉仕する」求道者を標榜し、私有財産を否定、夫人との不和に陥る。1999年「復活」を完成。1910年、家出の10日後、鉄道の駅長官舎で波乱の生涯を閉じた。

作者はこの作品の印税を、当時弾圧を受けていたドゥホボル教徒のカナダへの移住のために献金した。1901年、トルストイはロシア正教を破門されたが、その直接の理由は、『復活』の中で「聖書を勝手に解釈したり正教を冒涜したりした」ととられたためである。これは一般民衆の反発を買ったが、現在に至るも破門は解除されていない。
当時実際にあった類似の事件に触発され、また作者自身の過去の行状に対する悔恨の情を織り交ぜながら書いたといわれる。

あらすじ
若い貴族ドミートリイ・イワーノヴィチ・ネフリュードフ公爵は殺人事件の裁判に陪審員として出廷するが、被告人の一人である若い女を見て驚く。彼女は、彼がかつて別れ際に100ルーブルを渡すという軽はずみな言動で弄んで捨てた、おじ夫婦の別荘の下女カチューシャその人だったのだ。彼女は彼の子供を産んだあと、そのために娼婦に身を落とし、ついに殺人に関わったのである。
カチューシャが殺意をもっていなかったことが明らかとなり、本来なら軽い刑罰で済むはずだったのだが、手違いでシベリアへの徒刑が宣告されてしまう。ネフリュードフはここで初めて罪の意識に目覚め、恩赦を求めて奔走し、ついには彼女とともに旅して彼女の更生に人生を捧げる決意をする。


第一編

聖書からの引用

マタイ 18:21
そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

マタイ 7:33
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。

ヨハネ 8:6-8
彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。

けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。

ルカ 6:40
弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。


全編書けませんので、冒頭の数行のみ下記します。

 何十万という人びとが、あるちっぽけな場所に寄り集まって、自分たちがひしめきあっている土地を醜いものにしようとどんなに骨を折ってみても、その土地に何ひとつ育たぬようにとどんな石を敷きつめてみても、芽をふく草をどんなに摘みとってみても、石炭や石油の煙でどんなにそれをいぶしてみても、いや、どんなに木の枝を払って獣や小鳥たちを追い払ってみてもー---春は都会のなかでさえやっぱり春であった。

 

 太陽にあたためられると、草は生気を取りもどし、すくすくと育ち、根が残っているところではどこもかしこも、並木道の芝生はもちろん、敷石のあいだでも、いたるところで緑に萌え、白樺やポプラや桜桃もその香りたかい粘っこい若葉を拡げ、菩提樹は皮を破った新芽をふくらませるのだった。鴉や雀や鳩たちは春らしく嬉々として巣づくりをはじめ、蠅は家々の壁の日だまりのなかを飛びまわっていた。草木も、小鳥も、昆虫も、子供たちも、楽しそうであった。
 しかし、人びとは――――もう一人前の大人たちだけは、相変わらず自分をあざむいたり苦しめたり、お互い同士だましあったり、苦しめあったりすることをやめなかった。
 人びとは神聖で重要なものは、この春の朝でもなければ、生きとし生けるものの幸せのために与えられた、この神の世界の美しさ――――平和と親睦と愛情に人びとの心をむけさせるその美しさでもなく、互いに相手を支配するために自分たちの頭で考えだしたものこそが、神聖で重要なものだと考えているのであった。 
(以下略)