本日は、「福音」とは何だろうかという疑問がある方、向けに、神学辞典を調べてみました。
やさしく、簡単に記された、神学辞典から引用したものを下記します。
福音( English Gospel, Greece Euaggelion, Germany Evangelium
もとは一般的に良い知らせを意味する語で、子供が生まれた知らせや戦いに勝った知らせなど、聞くものに喜びを与えるような知らせに関して、用いられた。聖書で用いられている場合にも、同じ意味を持っているが、ただそこではもはや一般的な意味においてではなく、特定のものを指す語になってきている。
●旧約には、<福音>という語は、1回しか用いられていないが(イザヤ61:1)、「よきおとずれ」という語が数回用いられている(イザヤ40:9,
41:27, 52:7 )。その場合、よきおとずれと言われるのは、イスラエルがバビロンの捕囚から解放されて母国に帰り、ヤハウェを王とする国を回復するときが来た、という知らせのことである。
●上記の場合を除いて、<福音>という語は、もっぱら新約に用いられている。その場合、すべてイエス・キリストにおいて実現された神の救いに関して、用いられている。福音書では、単に「福音」といわれていることもあるが( マルコ1:15,
8:35 )、「神の福音」(マルコ1:14)、「イエス・キリストの福音」(マルコ1:1 )、など言葉の内容を加えている場合が多い。これらは、バプテスマのヨハネおよびイエスの宣教の内容を、福音と言っているのであるが、その場合は、イエス・キリスト自身が、福音の内容であるという意味ではなく、彼は福音の宣教者であって、福音の内容は、神の約束した救いの実現される時が来たこと、神の国が到来して、待望の時から信じて受ける時になったことである。イエス自身が福音という語を口にされたか否かは、明確に断定できない。それは彼がメシヤ(キリスト)であることを自覚していたか、という問題と、関連をもって考えなければならない問題である。しかし彼が断食しない理由を答える際に、自分たちを婚礼の客にたとえていることを見ても、イエスが、信仰の基調を「喜び」においていたことが、うかがわれる。
(マルコ2:19)
イエスは彼らに言われた。「19花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿に付き添う友達が断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。20
しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。21だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。22
また、だれも新しいぶどう酒を古い革袋に入れるようなことはしません。そんなことをすればぶどう酒は革袋を張り裂き、ぶどう酒も革袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるのです。」
●彼が福音という語を用いて、自分の宣教の内容を言い現わしたか否かは別として、それが喜びを与える教えであると認めていたことは、明らかであって、福音という観念は、イエスももっていたとみるべきである。
「使徒行伝」以下において、福音という語が用いられる場合には、もはや神の国という観念が、前面に出てこない。そこではイエス・キリストにおいて実現されたことが、福音の内容として語られている。すなわち、イエスの受肉・死・復活の出来事において、罪のあがないが成就され、神との永遠の交わりが回復されたことが、福音として宣べられている。初代教会が福音と呼んだ宣教の内容は、具体的にどれだけのことがらをさしていたか、「ドッド」は、使徒行伝とパウロの手紙の中に見いだされる、要約的な箇所を検討した結果として、初代教会が一定の事項とその配列を、公に定めて、<宣教の要綱>(ケリュグマ)を持っていたと推定し、その内容の代替の輪郭を示している。
それは次のようである。①預言者が約束した神の救いの成就の時が到来したこと、②それはイエスの活動と死と復活とによって、実現していること。イエスの生涯の輪郭の叙述。③イエスは復活して、神の右にあげられ、主とされキリストとされたこと。④聖霊がキリストによって与えられたこと。⑤キリストが再び来ること。⑥悔い改めて聖霊と救いを受けることを勧める言葉で終わる。
( 使徒2:14-39, 3:13-26,10:36-43、Ⅰコリント15:1-7,ローマ1:1-4 )
使徒2:14-39 14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。15
今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。17
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19
また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。21
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇跡を行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。26
それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』
29 兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。34 ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。
『主は私の主に言われた。35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』
36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った
。38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
使徒3:13-26 13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。14
そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、15 いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。16
そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。17
ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたのです。18 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。19
そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。20 それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。21
このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。22 モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。23
その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』24 また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について宣べました。25
あなたがたは預言者たちの子孫です。また、神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたあの契約の子孫です。26
神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」
使徒10:36-43 36 神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。37
あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。39
私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。40 しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。41
しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。42
イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。43
イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
Ⅰコリント15:1-7 1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。2
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。3
私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4
また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。7
その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。
ローマ1:1-4 1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ。
2 —この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、3 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、4
聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
***********************************************************************************************************************
異邦人に対する宣教の場合には、以上の事項のほかに、万物の創造者である唯一の神のみがいますこと、偶像を捨てて、真の神を信ずべきこと、などが宣べられねばならなかったであろう。(
使徒17:24-31, 一コリント8:4-6, Ⅰテサロニケ1-9 )
使徒17:24-31, 24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。25
また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちの息と万物とをお与えになった方だからです。26
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。27
これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。28
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。
29 そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。30 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。31
なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
一コリント8:4-6, 4 そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。5
なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。
Ⅰテサロニケ1-9 1 パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。2
私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、3 絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。4
神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。6
あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。8
主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。9
私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
***********************************************************************************************************************
福音はしばしば律法に対立するものとして語られている。すなわち、神の救いの実現に至る道として、福音と律法の二つのものが、対立的に取り上げられ、新しい契約である福音が来ることによって、廃棄された古い契約として、律法の無効が主張されている。この場合、律法というのは、具体的に、旧約に記されている条項の一つ一つ、あるいは全体を指すよりも、救いの原理として、人が神の要求を充たす生活を実現することによって、神の祝福に与する資格を獲得する、という道を意味する。ユダヤ教の宗教は、その原理の上に立ってきた。それに対し福音とは、神みずから人となって、罪のあがないを成就して罪人を招き、人は神の要求を満たし得ないままで、ただ神の恵みの招きを信じて受け入れることによって、神の祝福に与ることができるという道である。律法による神との関係が、割礼をもって象徴されるのに対し、福音による関係は、信仰をもって代表される。しかし律法を、神の祝福に与る条件を示すものと考えたのは、ユダヤ教の誤解であって、本当は律法は福音に従属し、福音によって成就されるものである。したがって福音は、律法と対立し、それを廃棄するものではないのである。律法は人に罪を自覚させるためのものであって、それによって、人はキリストによる救いを唯一の福音として求め、より頼むようになるのである。
福音は現実には、人によって語られた言葉であるが、しかしそれは単なる言葉ではなく、「神の力」である一面を持っている。神およびイエス・キリストは、ただ福音の内容として語られる客体であるにとどまらず、活ける神なる聖霊として、 福音の語られるところに共にあって活動し、福音を信じて受け入れるものに、救いを与え、新しい永遠の命を与えるのである。そのことが、福音を真に福音たらしめるのであって、福音はたんに神について救いについての報道や記録ではなく、現実に、神との交わりをつくりだし、救いを実現する力を持つのである。
旧新約聖書神学辞典より 柏井 忠夫氏の執筆 ( 日本基督教団室町教会牧師 )