聖書に多く用いられる「しもべ」について
皆さん今日は。本日は、聖書を読むとあちらこちらに出てくる、「しもべ」という言葉について解説します。しもべはもちろん日本語ですが、新約聖書はギリシャ語で、旧約聖書はヘブライ語で記されていますそしてごくわずかの部分はアラム語で書かれています。「しもべ」とは、直接的には、他者に忠義を尽くす義務を負うものの意味です。
●新約聖書 マルコ10:45
45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
この個所の、苦難と贖いの死を予告したイエスの言葉の背景にあるのは、イザヤ書のしもべ像です。イエスは「人の子は苦しみを受けねばならない」と語りましたが、その背景にあるのは、ダニエル書の「人の子」思想よりもむしろイザヤ書の苦難のしもべ像です。
イエスの洗礼時の天からの声には、イザヤ42:1の「 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」が反映されており、イエスのその後の使命が主のしもべとしての代贖苦とかかわることが暗示されます。
最後の晩餐でイエスは、契約の血として多くの人のために自分の血を流すことを予告しましたが、そこにもまたイザヤのしもべの姿が濃厚に表れています。このように、イザヤの主のしもべ像は、イエスが自分の宣教を、身代わりの苦難と死を通してなされる贖いのわざであると理解する上で、大きな要素となったことは間違いありません。
初代教会はイエスを「主のしもべ」と呼びます。イエスは「仕える者」(しもべ)の姿をとって、来臨し(ピリピ2:7)十字架の死に至るまで神に仕えました。イエスはその全き服従と受難と死のゆえに、イザヤ書の「苦難の主のしもべ」と同一視されています。ヨハネの「世の罪を取り除く神の小羊」というイエスの呼称にも、しもべ像が反映されています。このように、新約聖書の証言するところによれば、「主のしもべの歌」は、人類を罪の咎から解き放つ神のしもべ、来るべきメシヤ・キリストについての一大預言詩だったのでした。
「しもべ」は、新約では、ディアコノス(「仕える者」を表す語。旧約の用法が新約にも継承され、奴隷、しもべ、家来、はしため、等を指します。
神との関係においては、神の民、預言者たち、が「神のしもべ」と呼ばれます。モーセ、ダビデ、イスラエル共同体も神のしもべと呼ばれます。信仰者たちは自分を「神のしもべ」と呼びます。イエスは特別な意味において神のしもべです。
パウロはこの語(しもべ)を奴隷の意味で比喩的に用いて、人はキリストにより信仰のゆえに「罪の奴隷、汚れと不法の奴隷」から解放されて、「従順の奴隷、義の奴隷、神の奴隷」とされると述べています。また、同じ語を用いてパウロは自分を「キリスト・イエスのしもべ」と呼ぶが、それは旧約の「しもべ」の契約適用法に基づくものです。パウロをはじめキリスト者たちが自分を「キリストのしもべ」と呼ぶことは、イエス・キリストを「主」と告白することの当然の帰結です。一方、イエスは弟子たちをもはや「しもべ」ではなく「友」と呼ぶといい、「父」なる神の子とするといいました。主のしもべは、主に仕えるとともに、他者に仕えるしもべでもある。
●マタイ20:25-28
25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
26 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。
●ローマ13:4
4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。
●ローマ15:8
8 私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者のしもべとなられました。
●マタイ8:6
6 「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」
●マタイ12:18
18 「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心は喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。
パウロは、人はキリストにより信仰のゆえに、「罪の奴隷、汚れと不法の奴隷」から解放されて、「従順の奴隷、義の奴隷、」神の奴隷とされると述べている。」以下参
●ローマ6:16
16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
「しもべ」で最も注目すべきは、イザヤ書42:1-4,49:1-6,50:4-9,52:13-53:12の4つの歌です。
●イザヤ書 42章
1 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。
2 彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声は聞かせない。
3 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらず。
4 彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。
●イザヤ書49章
1 島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。
2 主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。
3 そして、私に仰せられた。「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。
4 しかし、私は言った。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」
5 今、主は仰せられる。―主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。―
6 主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」
●イザヤ書50:4-9
4 神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。
5 神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、
6 打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。
7 しかし、神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。
8 私を義とする方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さばきの座に共に立とう。どんな者が、私を訴えるのか。私のところに出て来い。
9 見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす。
●イザヤ書52:13-53:12
13 見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
14 多くの者があなたを見て驚いたように、―その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた―
15 そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。
●イザヤ書53章
1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。
2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6 私たちはみな、羊のよう
にさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。
10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
「主のしもべの歌」に勝って深く大きな影響を新約聖書に与えた旧約預言はありません。新約聖書はしもべの歌をメシヤ預言としてとらえ、そこに歌われる「主のしもべ」はメシヤであり、そのメシヤがイエスであると告げるのです。
( 新キリスト教辞典から転載。熊谷 徹氏 )